第一九四回 ①
ムジカ釣魚之計に任じて三たび背走し
ドルベン首鼠両端を持して常に遅疑す
さて、獬豸軍師サノウの予見はことごとく的中して、北軍はたちまち息を吹き返す。各地に派遣していた僚友が続々と合流したほか、留守陣から霹靂狼トシ・チノが二万騎もの援軍を率いて駆けつけた。これによって八翼の軍勢を整理して、七翼に再編する。あとは梁軍を撃ち攘うのみ。
それについてもすでに籌算(注1)があるらしく、超世傑ムジカを先鋒に任じて諸将に策を授けた。一同はおおいに喜んで決戦に備える。
とはいえ、梁軍がツァビタル高原にあるうちはこれをどうすることもできぬ。彼が平原に下って、始めて勝敗を問うこともできようというもの。
そこでサノウは、撒き餌として梁将が決して棄て置くことのできぬ噂を流す。というのは、ダナ・ガヂャルに遣った神風将軍アステルノと麒麟児シンが、梁公主とジャンクイを擒えたことである。
案の定、梁軍を率いる慕兼成は、報に接するとすぐに陣を移すことを決めた。四頭豹ドルベンがあわてて抗議したが、まるで聞く耳を持たない。これもまたサノウの予期したとおり。すなわち「四頭豹は寡兵に過ぎて梁軍を主導することができない」というわけである。
慕兼成の心性についても、サノウの推測は正鵠を射る。草原の民に対する軽侮の念は抜きがたく、その目は敵軍よりむしろ、後方の皇帝や朝廷の政争に向いている。配下の諸将も、大将軍たる慕兼成の顔色を窺う阿諛便佞の徒が大半を占める。
矮狻猊タケチャクらの報せにより、梁軍が高原よりやや下って、高陵を背に布陣したことを知ったサノウは、ふふんと笑って、
「魚は巣から僅かに顔を出したといったところだな。そのまま北に兵を進めてくれたら言うことはなかったのだが」
長韁縄サイドゥが応えて、
「梁軍を高原から引き離さねばなりません。軍師言うところの、『釣り針』を用いるときでしょうな」
「然り」
頷くとムジカに向き直って言うには、
「超世傑。貴殿の任務は重いのみならず、行うに極めて難く、加えてこれまでの赫々(注2)たる名声を一時に損ねるやもしれぬ。だが貴殿を措いてほかにこれを完遂できるものはない。嘱んだぞ」
ムジカは拱手して深々と頭を下げると、
「微々たる虚名にどうして拘りましょうや。紅火将軍、神風将軍らと力を併せ、身命を賭してやり遂げてご覧にいれましょう」
勇躍して退出すると、第三翼を率いて即日進発する。さらにこれを援護すべく第六翼の花貌豹サチが、やや後れて発つ。余の諸将はそれぞれクリエンに戻って出撃の準備を整えると、再び本営に集って向後の策戦を確認する。席上、サノウが誇らしげに言うには、
「先のヴァルタラの役においては、『大鵬の翼の計』をもって四頭豹を破りました。このたびの計策もまたこれに倣った嘉名を思いつきました」
インジャはおおいに喜んで、
「おお、それは好い。で、その名は何と?」
「はい。『大鵬の嘴の計』というのはいかがでしょう」
「ほう……」
すると奇人チルゲイが卒かに大笑して、
「いや、釣りだ、釣り! 『釣魚の計』とでも云うのが、もっとも解りやすい!」
一同はどっと笑って、「そうだ、釣りだ、釣りだ!」と盛んに囃したてたので、サノウの提案は瞬時にないことになってしまった。
サノウは戦が終わったあとも終生頑固に「大鵬の嘴の計」と言い続けたが、ほかのものは(インジャでさえ)、「釣魚の計」としか覚えていなかった。計略を立てたのはサノウであるにもかかわらず不憫なことではあったが、得てして名とはそういうものである。
話を今に戻せば、いまだ勝敗の帰趨明らかならず、計策の成否は名に由らぬものであることは自明である。ただ「人事を尽くして天命に聴せる」のみといったところ。
各翼は陣を払って、順次移動しはじめる。先行したムジカたちとは逆に、北へ。例によって知世郞タクカの選定した地を指す。それがどこであるかはいずれ判ること。
一方、南へ向かったムジカは、二日後には敵影を望む。当然、南軍のほうも接近に気づく。四頭豹はその旗を見て呟いて言うには、
「超世傑と紅火将軍、それに神風将軍か。何と面倒な」
そこへ慕兼成から伝令が来て、命令を伝えて言うには、
「敵が陣形を整える隙を与えず、即刻突撃せよ」
これを聞いた四頭豹は驚愕のあまり目を剥いて、
「まさか! 大将軍はご存知ないかもしれぬが、敵人は侮るべからざる難敵。しかも北軍にはまだ十万の兵があるというのに、寄せてきたのは僅かに二万騎ほど。まずは斥候を放って敵情を探り、余の軍勢の所在を確かめなければ、どんな奸計があるのやら……」
しかし伝令ごときに何を言ってもしかたない。ひとつ舌打ちすると、自ら本営に馬を飛ばす。幕舎に駈けこむなり、あれこれ訴えれば、
「この臆病者め。奸計だと? 蛮族の考えることなど、いちいち気にしていられようか」
「しかし閣下、無策に突撃することだけはどうかご再考ください」
「うるさい! 突撃しない騎兵など何のためにあるのか。こうしていたずらに時を費やしている間に勝機を逃したらどうするのだ、愚かものめ」
四頭豹は言葉を失う。かつて彼を愚かなどと罵ったものは一人とてない。慕兼成はその無言をどう思ったのか、さらに続けて言うには、
「いったい誰のために千里もの道を越えてきたと思っているのだ。お前が先頭に立って戦わないでどうする。もともとはお前ら塞外の民の戦だろう。前線に戻れ!」
(注1)【籌算】はかりごと。籌策。
(注2)【赫々】光り輝くさま。勢威、功名、声望などが立派で目立つさま。




