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草原演義  作者: 秋田大介
巻一三
773/785

第一九四回 ①

ムジカ釣魚之計に任じて三たび背走し

ドルベン首鼠両端を持して常に遅疑す

 さて、獬豸(かいち)軍師サノウの予見(ヂョン)はことごとく的中(オノフ)して、北軍はたちまち(アミ)を吹き返す。各地に派遣していた僚友(ネケル)が続々と合流(べルチル)したほか、留守陣(アウルグ)から霹靂狼トシ・チノが二万騎もの援軍を率いて駆けつけた。これによって八翼(ナェマン)の軍勢を整理して、七翼(ドロアン)に再編する。あとは梁軍を撃ち(はら)うのみ。


 それについてもすでに籌算(ちゅうさん)(注1)があるらしく、超世傑ムジカを先鋒(アルギンチ)に任じて諸将に策を授けた。一同はおおいに喜んで決戦に備える。


 とはいえ、梁軍がツァビタル高原にあるうちはこれをどうすることもできぬ。彼が平原(タル・ノタグ)に下って、始めて勝敗を問うこともできようというもの。


 そこでサノウは、撒き()として梁将が決して棄て置くことのできぬ噂を流す。というのは、ダナ・ガヂャルに()った神風将軍(クルドゥン・アヤ)アステルノと麒麟児シンが、梁公主とジャンクイを(とら)えたことである。


 案の定、梁軍を率いる慕兼成は、報に接するとすぐに(トイ)を移すことを決めた。四頭豹ドルベンがあわてて抗議したが、まるで聞く(チフ)を持たない。これもまたサノウの予期したとおり。すなわち「()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()」というわけである。


 慕兼成の心性(チナル)についても、サノウの推測は正鵠(せいこく)を射る。草原(ミノウル)(ウルス)に対する軽侮の念は抜きがたく、その(ニドゥ)敵軍(ブルガ)よりむしろ、後方の皇帝や朝廷の政争に向いている。配下の諸将も、大将軍たる慕兼成の顔色を窺う阿諛便佞(あゆべんねい)の徒が大半を占める。


 矮狻猊(わいさんげい)タケチャクらの報せにより、梁軍が高原よりやや下って、高陵を背に布陣したことを知ったサノウは、ふふんと笑って、


(ヂガスン)は巣から僅かに(ヌル)を出したといったところだな。そのまま(ホイン)に兵を進めてくれたら言うことはなかったのだが」


 長韁縄(デロア・オルトゥ)サイドゥが応えて、


「梁軍を高原から引き離さねばなりません。軍師言うところの、『釣り針(ゲウギ)』を用いるときでしょうな」


然り(ヂェー)


 頷くとムジカに向き直って言うには、


「超世傑。貴殿の任務(アルバ)は重いのみならず、行うに極めて(かた)く、加えてこれまでの赫々(かくかく)(注2)たる名声(ネルテイ)を一時に(そこ)ねるやもしれぬ。だが貴殿を()いてほかにこれを完遂できるものはない。(たの)んだぞ」


 ムジカは拱手して深々と(テリウ)を下げると、


「微々たる虚名にどうして(こだわ)りましょうや。紅火(アル・)将軍(ガルチュ)、神風将軍らと(クチ)を併せ、身命を賭してやり遂げてご覧にいれましょう」


 勇躍(ブレドゥ)して退出すると、第三翼を率いて即日進発する。さらにこれを援護(トゥサ)すべく第六翼の花貌豹サチが、やや(おく)れて発つ。余の諸将はそれぞれクリエンに戻って出撃の準備を整えると、再び本営(ゴル)(つど)って向後の策戦を確認する。席上、サノウが誇らしげに言うには、


「先のヴァルタラの役においては、『大鵬(ハンガルディ)の翼の計』をもって四頭豹を破りました。このたびの計策もまたこれに(なら)った嘉名を思いつきました」


 インジャはおおいに喜んで、


「おお、それは好い(サイン)。で、その名は何と?」


はい(ヂェー)。『大鵬の(くちばし)の計』というのはいかがでしょう」


「ほう……」


 すると奇人チルゲイが(にわ)かに大笑して、


いや(ブルウ)、釣りだ、釣り! 『釣魚(ちょうぎょ)の計』とでも云うのが、もっとも解りやすい!」


 一同はどっと笑って、「そうだ(ヂェー)、釣りだ、釣りだ!」と盛んに(はや)したてたので、サノウの提案は瞬時(トゥルバス)にないことになってしまった。


 サノウは(ソオル)が終わったあとも終生頑固(コキル)に「大鵬の嘴の計」と言い続けたが、ほかのものは(インジャでさえ)、「釣魚の計」としか覚えていなかった。計略を立てたのはサノウであるにもかかわらず不憫なことではあったが、得てして名とはそういうものである。


 話を今に戻せば、いまだ勝敗の帰趨明らかならず、計策の成否は名に由らぬものであることは自明である。ただ「()()()()()()()()()()(まか)()()」のみといったところ。


 各翼は陣を払って、順次移動(ヌーフ)しはじめる。先行したムジカたちとは逆に、()()。例によって知世郞タクカの選定した(ガヂャル)を指す。それがどこであるかはいずれ判ること。


 一方、(ウリダ)へ向かったムジカは、二日後には敵影を望む。当然、南軍のほうも接近(カルク)に気づく。四頭豹はその(トグ)を見て呟いて言うには、


「超世傑と紅火将軍、それに神風将軍か。何と面倒(ヤルシグタイ)な」


 そこへ慕兼成から伝令(グユクチ)が来て、命令(カラ)を伝えて言うには、


「敵が陣形を整える隙を与えず、()()()()()()


 これを聞いた四頭豹は驚愕のあまり目を()いて、


「まさか! 大将軍はご存知ないかもしれぬが、敵人は侮るべからざる難敵。しかも北軍にはまだ十万の兵があるというのに、寄せてきたのは僅かに二万騎ほど。まずは斥候を放って敵情を探り、余の軍勢の所在を確かめなければ、どんな奸計があるのやら……」


 しかし伝令ごときに何を言ってもしかたない。ひとつ舌打ちすると、自ら本営に(アクタ)を飛ばす。幕舎(チャチル)に駈けこむなり、あれこれ訴えれば、


「この臆病者め。奸計だと? 蛮族の考えることなど、いちいち気にしていられようか」


「しかし閣下、無策に突撃することだけはどうかご再考ください」


「うるさい! ()()()()()()()()()()()()()()()()のか。こうしていたずらに時を費やしている間に勝機を逃したらどうするのだ、愚かものめ」


 四頭豹は言葉(ウゲ)を失う。かつて彼を愚かなどと罵ったものは一人とてない。慕兼成はその無言をどう思ったのか、さらに続けて言うには、


「いったい誰のために千里もの道を越えてきたと思っているのだ。お前が先頭に立って戦わないでどうする。もともとはお前ら塞外の民の戦だろう。前線に戻れ!」

(注1)【籌算(ちゅうさん)】はかりごと。籌策。


(注2)【赫々(かくかく)】光り輝くさま。勢威、功名、声望などが立派で目立つさま。

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