第一九三回 ③
神風将ダナ・ガヂャルに征きて輒ち姦婦を囚え
慕兼成ドルベンを軽んじて二たび上申を却ける
送還されるものたちは等しく後ろ髪を引かれる思いだったが、中でも常にインジャの傍らで大将旗を護持する任にあった、長旛竿タンヤンのそれは格別だった。いよいよ出立する日となると、ナハンコルジを招いて言うには、
「石沐猴、お前のともすれば頑迷とも言うべき実直を見込んで、頼みがある」
「何だそれは。褒めているのか、貶しているのか」
「すまぬ。まあ、聞いてくれ。俺は不覚にも傷を負って、ハーンの許を離れざるをえぬ。そこで、お前に大将旗を託したい」
「何と!」
「広く僚友を見渡しても、お前を措いてほかに任せられるものはない。嘱んだぞ」
こうまで言われて発奮せざるものは好漢ではない。ナハンコルジはどんと胸を叩いて言うには、
「おお! たしかに預かったぞ。しっかり治して帰ってこい」
タンヤンは漸く安堵したが、くどくどしい話は抜きにする。
閑話休題。まずサノウは、数多の斥候を放って敵情を探る。南軍は変わらずツァビタル高原に布陣していた。次いで命じて、
「梁公主とキタド・ハーン(※ジャンクイのこと)が我が手に落ちたことを広く知らしめて、必ず梁将の耳に入れよ」
タケチャク、マルケ、オンヌクド、クミフの四将がこれに従う。
「これですぐに梁軍が動くのであれば、事は容易に成るでしょう」
サノウはそう言うと、各翼の主な将領を集めて軍議を開く。経緯を聞いたサイドゥが、憂え顔で尋ねて言うには、
「梁将が地の利を棄てることを躊躇って動かなかったときは?」
サノウはふふんと笑うと、
「釣り針を垂らす」
「釣り針?」
「然り。北軍には、ちょうど能く釣り針を操って大魚を掛ける技能の主がある」
諸将はわけがわからず顔を見合わせる。サノウはうちの一人を指して言った。
「超世傑。再度ご苦労だが、全軍の先駆けを務めよ。騎兵の運用にかけては貴殿の右に出るものはない。副将たる紅火将軍と神風将軍もまた衆に抜きんでた良将。貴殿らのはたらきに我らの命運が懸かっていると心得よ」
ムジカ、キレカ、アステルノの三将は、勇躍して拝命する。余の諸将にも、決戦における陣立と計策が授けられる。仔細を聞いた諸将は、
「なるほど、釣り針とはよく言ったものだ。超世傑はまさに適任だ」
とておおいに喜んだ。サノウがどのような策戦を立てたかはいずれ判ることゆえ、今は詳らかにしないでおく。
しばらくすると、タケチャクたちによって撒かれた噂は、ついに梁将の聞き及ぶところとなった。
「梁公主が蛮族に擒えられただと!? それは真か!」
狼狽も露に叫んだのは、梁軍の帥将たる慕兼成。官は征北大将軍。身の丈八尺の長身で、長い顎鬚を垂らしている。鉤鎌槍の使い手。
「確証はありませんが、公主が英王(※ジャンクイのこと)と匿れていた地が、敵軍に席巻されたことは紛れもない事実。十分にありえます」
答えたのは副将たる洪施。官は鎮北将軍。こちらは身の丈七尺足らずの短躯で、黒い肌に黒い口髭を生やしている。
「まずい。それはまずいぞ……」
慕兼成は顎鬚をしごきつつ眉を顰める。何となれば、梁公主は名目上のこととはいえ、先帝章宗の娘としてトオレベ・ウルチに嫁したからである。すでに殺されたと云うならまだしも、生きていると知りながらこれを放置するのはいかがなものか。もし策を講じることなく兵を返したとして、そのことが露見しようものならただではすむまい。
「面倒なことになったものだ。蛮族どもめ、いっそ母子ともに殺しておいてくれれば……」
「閣下!! そのようなこと、口にしてはなりませぬ!」
洪施があわてて諫止する。慕兼成は、はっと我に返ると、
「おっと、聞かなかったことにせよ。だがそう言いたくもなるだろう。公主と云っても、その実は後宮にあった美人の一人に過ぎぬ。それは周知のことなのだぞ」
「そうかもしれませぬが、今はたしかに公主。すなわち今上陛下のご係累ということになります」
慕兼成は、ううむと唸ると、
「私はいたずらに戦いたくない。戦いたくはないが、戦わぬわけにもいかぬか」
「敵は先の大敗にも懲りず、北方数十里に蟠っているとか……」
「煩わしいことよ。愚かな蛮族が」
「まもなく追加の輜重がまいります。そうすればなおしばらく滞陣できましょう」
慕兼成はしばし黙考していたが、やがて意を決して言った。
「陣を移すぞ。いったんここを下って、高陵を背に布陣する。そこで敵がどう動くか待つ」
「承知!」
洪施は退出すると、各処に命を下す。応じて二十万の兵衆がおもむろに移動の準備を始める。驚いたのは四頭豹。いったい何をしようとしているのか確かめようと、あわてて本営に赴く。馬を繋ぐ暇も惜しんで駈けこむや言うには、
「閣下、何をなさるおつもりですか!」
慕兼成は一瞥をくれると、
「お前ごときの知ったことではないが、高原の下に陣を移す。そうだ、お前が先鋒となれ」
四頭豹は目を瞠って反駁する。
「わざわざ険阻の地を棄てるとは、どういうお考えでしょう。ここに拠っていれば、ほどなく敵人は為す術もなく退くほかないのですぞ」
「状況が変わったのだ。聞けば、ヤクマンに降嫁した先帝の公主が、敵に擒えられたそうではないか。陛下の忠臣としてこれを救わぬわけにはいくまい」
四頭豹は愕然として言葉を失う。忠臣などと聞いて呆れる。後難を恐れて保身のために兵を動かすだけのことではないか。四頭豹から見れば、愚劣極まりない。無論、四頭豹も梁公主の件は知っている。知ってはいるが、それと兵略は自ずと別のことである。大将軍の地位にあるものが、それしきのことも解らぬとは予想だにしない。




