第二 〇回 ① <カトメイ、チルゲイ登場>
ヒスワ大王に見えて征東の利を説き
チルゲイ部落を離れて疑狐の士に遇う
コルブとバラウンジャルガルをやり過ごしたヒスワは、足を速めてマシゲル部の牧地を去った。ゴロの生存を知って焦っていたのである。
マシゲル部の版図を過ぎると、ベルダイ右派の牧地。ここで一旦身体を休めたが、また翌日には出立する。サルカキタンは百騎を率いて、一行を三十里ほど送っていった。ヒスワはこれと別れたあと、毒づいて言った。
「目立たぬよう従者を減らしているというのに余計なことを。大人は兵事には見るべきところもあるが、この手のことには疎いようだ」
そのサルカキタンと結んで草原全体を揺るがせようとしているのは誰だ、とサルチンは思ったが口には出さない。ヘカトは恃みにならぬ味方に不安を増すばかり。
「ときにヒスワ、ここからメンドゥ河まではフドウ、ジョンシ、タロトの牧地が境を接しているが、うまく越えられるだろうか」
サルチンが問えば、ヒスワは鼻で笑って、
「我らは軍隊ではない。商旅ということにしておけばよい。我らの顔を知るものに遭うこともないだろう。むしろ警戒すべきは野盗、蛮族の類だ」
その言うとおりそれから十日間、格別のこともなくメンドゥに至った。対岸はイシである。メンドゥ河最大の渡し場であるここには、何艘もの舟が並んでいる。
「どうだ、神都とは比ぶべくもないが、なかなかの盛況ぶりではないか」
ヒスワがやや興奮して言ったが、あとの二人は商用で何度も訪れているので何も感じない。何はともあれ、早速手ごろな舟を見つけて乗り込んだ。
街に入って宿を定めると、席を暖める暇もなく役所を訪ねた。門衛にワラカンの書状を示すと、しばらくして中に通された。
このときイシの知事は、ウリャンハタ部から派遣されたウラカン氏の族長ツォトンであった。四十を幾つか過ぎた歴戦の武人である。
「遠く神都から何用があって参られたか」
「はい。我々は大院の決議に基づいてウリャンハタ部へ遣わされたもの。しかしかつて大カンとは何の縁もなく、そこで知事殿に仲介を頼むべくまずはこちらに参ったというわけです。イシには我ら商用で訪れることも多く、ツォトン殿の高名もみな知るところ。是非とも仲介の労を取っていただきたい」
ヒスワが拱手再拝して述べるのを、ツォトンは髭をしごきつつ聞いていたが、ふうむと唸ると近侍する若い将領に言った。
「聞いたであろう。大カンへ取り次いでほしいとのことだが」
サルチンがその将に一瞥をくれたところ、その容貌にほうと感嘆の声を漏らす。その人となりはと云えば、
身の丈は八尺に至らんとし、眉目秀麗、それでいて精悍な面立ちはまさしく草原の武人のそれ。居ながらにして衆目を集めること疑いなく、末は千人の長か、万人の将か、恐るべき資質を秘めた無双の好漢。
「大カンにいかなる用があって仲介を欲するのか」
若い将はすぐさま三人に問いかけた。ヒスワが答えた。
「それは国家の機密に属することであって、大カンのほかにはツォトン殿にも申し上げられませぬ」
すると首を振って言うには、
「我らは大カンより鞭を預かってこのイシを護るもの。このような素性の知れぬ狗をアイルに導き入れるのは、大カンの信任に悖ることと存じます」
ヒスワの顔色がみるみる変わっていく。サルチンがあわてて言った。
「もちろん我々は大カンを欺こうというものではありません。正直に申しますと、近ごろの草原の不穏な情勢を憂えて、我ら交易で身を立てるものを救っていただきたく陳情に参ったのです。この乱世を鎮めうるのは大カンをおいてほかにございません。是非とも窮状をお察しください」
若い将は初めて大きく頷くと、ツォトンに向かって言った。
「そういうことなら私が自ら彼らをご案内しようと思いますが」
ツォトンはあっさり許した。サルチンは胸のうちでほっと安堵の息を漏らす。
その日は馬を休めたりといった細々したことで過ぎる。翌日、三人は例の若い将とともにミクケル・カンのアイルを指して北上の途に就いた。朝、三人を迎えにきたとき若い将は初めて名乗った。
「昨日は失礼しました。私はツォトンの嫡子でカトメイと申します。大カンに会われるまで同道いたします」
サルチンとヘカトは立派な将だと感心していたのでおおいに喜んだが、ヒスワは高慢な小僧としか感じていなかったので、返礼さえしなかった。
さて北上の旅は格別のこともなく、一行は広大な西原を悠々とした足取りで進んだ。何日か旅して漸く目指すアイルに辿り着く。
「ここでしばらくお待ちください。到着を知らせてまいります」
そう言ってカトメイは駆け去った。三人がすることもなく佇んでいると、ふらふらと近づいてくるものがある。そして言うには、
「やあやあ、ようこそウリャンハタへ!」
その人となりはと云えば、
身の丈七尺半、年のころはカトメイと同じほど、草原には珍しく裾の長い長袍を纏い、眼には涼しげな光、頬はこけ、鼻梁は通り、口唇は薄く、ゆらゆらと前合後仰(注1)して歩く見るからに怪しい奇態の人物。
「お主は何ものだ」
ヒスワが誰何すると、ふふと笑いながら答えて言うには、
「私はカオエン氏のチルゲイというもの。そういう君たちこそ何ものだ」
傲岸なもの言いにヒスワはかっとなって、
「お主の知ったことでは……」
声を荒らげようとしたところ、チルゲイと名乗った男は大きく手を振って、
「いや、待て待て、言ってくれるな。ぴたりと中ててみせよう。むむむ、君たちは街の民だなあ。……神都からの使者と看たがどうだ!」
サルチンは内心その慧眼におおいに驚いたが、何げない風を装って言った。
「そうだ、神都から大カンに会いに参った。君は我々に何か用でもあるのか」
「いや。うろうろしていたら見知らぬものどもが、しかめつらしい、いや、しかつめらしいか? まあどっちでもよい。そんなような顔で立っているから、揶揄いに来ただけだ。ははは」
さも愉快そうにからからと笑う。ヒスワは明らかに不快を面に出す。しかしサルチンはこの男に興味を覚えて、なおも尋ねた。
「チルゲイとやら、大カンというのはどんな方だ」
すると、おっと目を瞠って言うには、
「会って確かめるがよいさ。大カンとはもとよりウリャンハタの太陽、それに相応しい人物かどうかは君たちの判断におまかせ、おまかせ」
そう言い残すと、手をひらひらと振って何やら歌いながら去っていった。
「昨日の小僧といい、今の奴といい、ウリャンハタは無礼な奴ばかりだ」
ヒスワはそう吐き捨てたが、サルチンはなぜか妙に感心してこれを見送った。
(注1)【前合後仰】酔ってじっと立っていることができず、ふらふらしている様子。