第一九一回 ④
ドルベン乾坤一擲して赤心王を愕かし
ムジカ椎心泣血して赫彗星に諫めらる
またも四頭豹の奸計の前に大敗を喫したインジャたち。今は先のことを考えるよりも、まずは休息を欲する。寄り固まって円陣を形成し、馬を繋ぎ、鞍を置く。
そうしているうちに散り散りになっていた敗兵が、三々五々集まりはじめる。傷を負った僚友も一人、また一人と逃れてくる。それらはことごとくアサンとキノフの許へ送られて治療を施される。
殊に傷が深かったのは、やはり最初に奇襲を受けたものたち。マクベンやコルブ、モゲトなどである。彼らについては、そもそも生きてここまで辿り着いただけでもまったくの僥倖。テンゲリの加護があったとしか考えられない。
潰走する間に新たに負傷したものもあった。タンヤンについてはすでに述べたが、加えてオラル、オノチ、バラウン、ボッチギン、ヨツチ、ゾンゲルの六人が戦闘に堪えられなくなった。軽傷の類は数えきれず、大半のものが無傷ではいられない。それでも一昼夜のうちに黄金の僚友は欠けることなくうち揃う。
この奇跡をテンゲリに拝謝しないものはなかったが、何と云っても感謝するべきは危急に駆けつけた三翼。すなわちサチ、キレカ、ガラコとその将領である。彼女たちは、南軍が追撃を諦めてツァビタル高原に退いたのを確かめてから合流を果たす。インジャは親しくこれを迎えると、一人ずつ手を取って厚く礼を述べた。
次第に心身の困憊は癒えたが、代わって途方もない怒りや悲しみが込み上げる。将兵の損耗を検めれば、あまりの惨状に誰もが悵然(注1)として嘆息する。失った兵馬は全体の三割を超え、傷ついた僚友は十八名に上った。
また還らぬ命もあった。ムジカは悄然(注2)たる面持ちでソラを訪ねる。会うや否や地に伏して言うには、
「すまぬ! 私が至らぬせいで、ゾルハンを死なせてしまった。早くに君に返しておけばこのようなことには……」
あとは泣き崩れて言葉にならない。ムジカの下で「紅き隷民」を指揮していたゾルハンは、もとはと云えばソラの治めるジョシ氏の人衆。北軍の先頭に立った紅き隷民は、南軍の反撃に遭うや、瞬時に全滅したのである。
ソラはムジカを抱え起こすと、慰めて言うには、
「ハンのせいではありません。勝敗は兵家の常、憎むべきは四頭豹と梁軍です。ゾルハンとて決してハンを恨んじゃいませんよ」
「いや、私が『どこまでも進め(注3)』などという愚かな命令さえ与えなければ……。悔やんでも悔やみきれぬ」
とてソラの手を振り払い、地を撲って哭泣する。ソラはしばらく黙ってそれを見ていたが、やがて生来の直言を好む心性(注4)がむくむくと頭を擡げる。卒かに口調を改めて言うには、
「超世傑、しっかりしろ! 君は一軍の将たるハンの一人ではないか。戦の怨みは戦で晴らせ。そんな有様ではゾルハンの死が無になるぞ」
かつてはあの英王(注5)にすら諫言して憚らなかった好漢、もともと盟友たるムジカに何の遠慮があろう。ムジカは、はっとして言うには、
「殆うく大事を誤るところであった。赫彗星の言うとおりだ。きっと四頭豹を討ってゾルハンの志に報いよう」
ソラは恭しく拝礼して、
「それでこそ超世傑です。非礼はどうかお恕しください」
「何を言うか。おかげで目が覚めた。さあ、向後のことを諮ろう。ハーンの許に参るぞ」
気力を恢復したムジカは、ソラとともに本営に赴く。そこではまさにインジャが軍議を始めようとしていた。二人が一礼して着席すると、インジャはおおいに喜んで、
「ちょうど超世傑を呼びに遣ろうとしていたところだ。よくぞ参った」
余の居並ぶ好漢を数えれば、ヒィ・チノ、カントゥカ、ギィ、アリハン、サノウ、セイネン、ヒラト、ゴロ、アネク、ナユテ、サチ、チルゲイ、キレカ、ガラコの十四人。幕舎の隅には、警護の任を帯びたハレルヤとシャイカが立っている。
インジャは改めてサノウに尋ねた。
「軍師の見解や如何?」
サノウは、おもむろに左右を見渡すと、
「我らは四頭豹の奸計によって三分の一もの将兵を失いました。かたや敵軍は二十万の増援を得て、今や我が軍に倍する勢い……」
淡々と述べて黙りこむ。ムジカは居ても立ってもいられず、
「軍師! まさかまた撤退するなどと言わないでしょうね!?」
サノウは不快げに眉を顰める。一瞥して言うには、
「超世傑らしくもない。話は最後まで聴け」
ムジカはすっかり恥じ入って俯く。サノウはかまわず続けて、
「蓋し先に東西に現れた梁兵は先遣の軍勢に過ぎず、かの二十万こそが本隊。考えてみれば当然のことで、軍というものには必ず中軍があり、両翼のみということはありえません。四頭豹は、常に草原全体を一個の戦地と看做して策を立てる雄略大才の主。そこに思い至らなかったのは、まったく我が不明。軍師の重任を負いながら四頭豹に遠く及ばぬこと、伏してお詫び申しあげます」
一同は首を振って口々に何か言いかけたが、サノウはそれを自ら制して、
「しかしながら……」
ここでサノウが言ったことから、たちまち諸将の危惧は除かれ、鬱屈はことごとく払われることになる。開雲見日(注6)とはまさにこのこと。また積徳の余慶一挙に至り、気概はもちろん軍容まで一新する次第となる。果たして、インジャたちはいかにして再戦を挑むか。それは次回で。
(注1)【悵然】悲しみ嘆くさま。がっかりしてうちひしがれるさま。
(注2)【悄然】元気がなく、うち萎れているさま。しょんぼり。
(注3)【どこまでも進め】第一八九回④参照。
(注4)【直言を好む心性】第八 一回④参照。
(注5)【英王】ヤクマン部前ハーン、トオレベ・ウルチのこと。
(注6)【開雲見日】心配ごとがなくなって、将来に希望が持てるようになること。暗い雲が晴れて日の光が差すという意味から。




