第一九一回 ②
ドルベン乾坤一擲して赤心王を愕かし
ムジカ椎心泣血して赫彗星に諫めらる
今は危急の秋なれば、小物の死を悼んでいる暇はない。ゴロはすぐさま馬首を廻らす。薄情などと云うなかれ、何より救われた命を保ってこそ、志に報いることになろうというもの。
ゴロにかぎらず誰もが救えるべきは救い、やむをえざるは棄てて、死地より逃れんと足掻く。しかし周囲はことごとく恐慌の渦中、互いに援け合う心はあれど、まるで思うようにならない。兵衆は右へ左へ規律なく逃げ惑う。馬同士がぶつかって落馬するものもあとを絶たない。
第一翼の前軍にいた吞天虎コヤンサンもその一人。声をかぎりに兵を叱咤していたところに横合いから奔馬に突っ込まれて、あえなく鞍から落ちた。したたかに腰を打って悶絶する。従卒らはあわててこれを抱えて、ほうほうの体で退散する。
同じく前軍にあった殺人剣カーは、仰慕する鉄鞭のアネクに何かあったら一大事とて、おおいに狼狽する。これを庇おうと気ばかり逸ったあげく、かえって視野が狭窄したか、いつもなら喰らわぬ遠矢を腿に喰らってしまった。
北軍の混乱は覆いようがない。ヒィ、ムジカ、ギィの三傑に加えて、碧水将軍オラル、碧睛竜皇アリハンなど数多の名将がありながら、完全に統制を失う。
そのころ中軍では、獬豸軍師サノウが漸く上段の様子がおかしいことに気づく。というのも次第に兵衆の足が鈍り、ついにはまるで進めなくなってしまったからである。眉間に深い皺を刻んで言うには、
「どうした、上で何か変事があったか?」
百策花セイネンもまた声を荒らげる。
「なぜ進まない。どうなっているんだ!」
独り奇人チルゲイだけは暢気な調子で、
「銅鑼がじゃんじゃん鳴っているようだが、あれは何だい? あんなのあったっけ」
それを聞いて、サノウはますます険しい表情。インジャに向き直って言うには、
「我が中軍および後続の第五翼については、いったんここで留めましょう。上段の実状を確かめてから進むべきです」
インジャは進言を容れて兵を留め、黒曜姫シャイカを上段へ遣ることにする。そのシャイカは発ったと思いきや、瞬く間に戻ってきた。隣にはアリハンに従っていたはずの飛生鼠ジュゾウの姿がある。中途で行き合ったものらしい。転がるように駆けこんできて言うには、
「えらいことが起きましたぜ。上はもう大混乱で、ここまで辿り着くのにどれだけ苦労したか……」
それから早口に語るのを聞いて、目を瞠らぬものはない。セイネンが眉を吊り上げて叫んだ。
「伏兵だと!? しかも十万を遥かに超える伏兵など、ありえぬ!」
「そう言われても。しかとこの眼で見たんですから」
「まさか! 四頭豹に余剰の兵力などあるはずが……」
言いかけて何か思い当たったらしく、はっとして口を噤む。あとをサノウが継いで言うには、
「梁兵か」
またかと思われる方もあるやもしれぬが、その思いはインジャはじめ黄金の僚友とて同じこと。いや、それどころか度重なる梁兵の出現に切歯扼腕、怒りを禁じえない。とはいえ今はこれを破らんよりは、まず苦境を脱するのが先。サノウが拱手して言うには、
「敵人の計に嵌まったからには、少し退かねばなりません。後方にて堅陣を組み、迎撃する算段を」
するとインジャは憤激して、
「ただちに救援に向かうべきではないか。こうしている間にも神箭将たちは苦戦を強いられているのだぞ!」
「なりません」
サノウは冷厳に言い放つ。インジャは目を見開いて、
「なぜだ!」
「畏れながら申し上げます。平静な兵をもって恐慌に陥った兵に交えれば、必ず恐慌が勝ちます。よって上段に兵を送ることは火に油を注ぐようなもの。ここはむしろ退いて、敗兵の逃れる余地を設けるべきです」
インジャは黙って聴いている。そこで続けて、
「また敵の大軍は、いずれ勢いに任せて高所より下ってまいります。このような斜面の中腹で迎え撃つのは明らかに不利。もともと布陣していた下段の中央付近まで退避して備えるのがよろしかろうと存じます」
「……なるほど。軍師の言には道理がある。再び第五翼に伝令。旧の陣地まで退く」
また天仙母キノフに命じて、傷ついた将兵を平原で待機する王大母ガラコのクリエンに送り、治療に当たらせることとした。これを佐けるものとしてジュゾウ、ミヤーンを指名する。もちろん第五翼から聖医アサンを伴うよう伝えることも忘れない。キノフは拝命するや、即座に出立する。
さまざまなことどもを縷々述べてきたので、長大な時が経ったものと思われるかもしれないが、実のところ慮外の大軍が出現してから一刻と経っていない。よってサノウの献策もインジャの決断も、決して遅しと責められるものではなかった。
が、実際は遅きに失した。
より正確を期するならば、機を逸したと云うべきか。命を受けた第五翼が反転し、次いで第一翼の中軍も踵を返す。そうして斜面を僅かに下った、まさにそのときである。
梁軍が動いた。さながら大地そのものが動いたがごとく、歩騎連なって北軍を圧する。すでにして混乱を極める兵衆は、押されるままに退くほかない。先までは後続の兵が斜面を埋めていたので下がるに下がれなかったが、それがちょうど撤退に転じて逃れるべき隙が生まれた。
そこへ算を乱した兵衆が、堰を切った奔流のごとく押し寄せる。そのまま中軍まで雪崩れこめば、先にサノウが言ったとおり「恐慌が勝つ」。恐慌はあっと言う間に伝播して、少し退くつもりが一瞬にして潰走に変わってしまったのである。




