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草原演義  作者: 秋田大介
巻一三
762/785

第一九一回 ②

ドルベン乾坤一擲して赤心王を(おどろ)かし

ムジカ椎心泣血(ついしんきゅうけつ)して赫彗星に諫めらる

 今は危急の(とき)なれば、小物(カラチュス)の死を(いた)んでいる暇はない。ゴロはすぐさま馬首を(めぐ)らす。薄情などと云うなかれ、何より救われた(アミン)を保ってこそ、(オロ)に報いることになろうというもの。


 ゴロにかぎらず誰もが救えるべきは救い、やむをえざるは棄てて、死地より逃れんと足掻(あが)く。しかし周囲はことごとく恐慌の渦中、互いに援け合う(セトゲル)はあれど、まるで思うようにならない。兵衆は(バラウン)(ヂェウン)へ規律なく逃げ惑う。(アクタ)同士がぶつかって落馬するものもあとを絶たない。


 第一翼の前軍(アルギンチ)にいた吞天虎コヤンサンもその一人。(ダウン)をかぎりに兵を叱咤していたところに横合いから奔馬(クラン)に突っ込まれて、あえなく(エメル)から落ちた。したたかに腰を打って悶絶する。従卒(コトチン)らはあわててこれを抱えて、ほうほうの(てい)で退散する。


 同じく前軍にあった殺人剣カーは、仰慕する鉄鞭(テムル・タショウル)のアネクに何かあったら一大事とて、おおいに狼狽する。これを(かば)おうと気ばかり(はや)ったあげく、かえって視野が狭窄(きょうさく)したか、いつもなら喰らわぬ遠矢を(もも)に喰らってしまった。


 北軍の混乱は覆いようがない。ヒィ、ムジカ、ギィの三傑(ゴルバン・クルゥド)に加えて、碧水将軍(フフ・オス)オラル、碧睛竜皇アリハンなど数多の名将がありながら、完全(ブドゥン)に統制を失う。


 そのころ中軍(イェケ・ゴル)では、獬豸(かいち)軍師サノウが(ようや)く上段の様子がおかしいことに気づく。というのも次第に兵衆の足が(にぶ)り、ついにはまるで進めなくなってしまったからである。眉間に深い皺を刻んで言うには、


「どうした、上で何か変事があったか?」


 百策花セイネンもまた声を荒らげる。


「なぜ進まない。どうなっているんだ!」


 独り奇人チルゲイだけは暢気な調子で、


「銅鑼がじゃんじゃん鳴っているようだが、あれは何だい? あんなのあったっけ」


 それを聞いて、サノウはますます険しい表情。インジャに向き直って言うには、


「我が中軍および後続の第五翼については、いったんここで留めましょう。上段の実状を確かめてから進むべきです」


 インジャは進言を()れて兵を留め、黒曜姫シャイカを上段へ()ることにする。そのシャイカは発ったと思いきや、瞬く間(トゥルバス)に戻ってきた。(サーハルト)にはアリハンに従っていたはずの飛生鼠ジュゾウの姿(カラア)がある。中途で行き合ったものらしい。転がるように駆けこんできて言うには、


「えらいことが起きましたぜ。上はもう大混乱で、ここまで辿り着くのにどれだけ苦労したか……」


 それから早口に語るのを聞いて、(ニドゥ)(みは)らぬものはない。セイネンが(フムスグ)を吊り上げて叫んだ。


「伏兵だと!? しかも十万を遥かに超える伏兵など、ありえぬ!」


「そう言われても。しかとこの眼で見たんですから」


「まさか! 四頭豹に余剰の兵力などあるはずが……」


 言いかけて何か思い当たったらしく、はっとして(アマン)(つぐ)む。あとをサノウが継いで言うには、


()()か」


 またかと思われる方もあるやもしれぬが、その思いはインジャはじめ黄金の僚友(アルタン・ネケル)とて同じこと。いや、それどころか度重なる梁兵の出現に切歯扼腕、怒り(アウルラアス)を禁じえない。とはいえ今はこれを破らんよりは、まず苦境を脱するのが先。サノウが拱手して言うには、


敵人(ダイスンクン)の計に()まったからには、少し退かねばなりません。後方にて堅陣を組み、迎撃する算段を」


 するとインジャは憤激して、


「ただちに救援(トゥサ)に向かうべきではないか。こうしている間にも神箭将(メルゲン)たちは苦戦を()いられているのだぞ!」


「なりません」


 サノウは冷厳に言い放つ。インジャは目を見開いて、


「なぜだ!」


「畏れながら申し上げます。平静な兵をもって恐慌に(おちい)った兵に交えれば、()()()()()()()()()。よって上段に兵を送ることは(ガル)(トス)を注ぐようなもの。ここはむしろ退いて、敗兵の逃れる余地を設けるべきです」


 インジャは黙って聴いている。そこで続けて、


「また(ブルガ)の大軍は、いずれ勢いに任せて高所より下ってまいります。このような斜面の中腹で迎え撃つのは明らかに不利。もともと布陣していた下段の中央(オルゴル)付近まで退避して備えるのがよろしかろうと存じます」


「……なるほど。軍師の(ウゲ)には道理(ヨス)がある。再び第五翼に伝令。旧の陣地(ホウチン・トイ)まで退く」


 また天仙母キノフに命じて、傷ついた将兵を平原(タル・ノタグ)で待機する王大母ガラコのクリエンに送り、治療に当たらせることとした。これを(たす)けるものとしてジュゾウ、ミヤーンを指名する。もちろん第五翼から聖医(ボグド・エムチ)アサンを伴うよう伝えることも忘れない。キノフは拝命するや、即座に出立する。


 さまざまなことどもを縷々(るる)述べてきたので、長大な時が経ったものと思われるかもしれないが、実のところ慮外の大軍が出現してから一刻と経っていない。よってサノウの献策もインジャの決断も、決して遅しと責められるものではなかった。


 が、実際は遅きに失した。


 より正確を期するならば、機を逸したと云うべきか。命を受けた第五翼が反転し、次いで第一翼の中軍も(きびす)を返す。そうして斜面を僅かに下った、まさにそのときである。


 梁軍が動いた。さながら大地(エトゥゲン)そのものが動いたがごとく、歩騎連なって北軍を圧する。すでにして混乱を極める兵衆は、押されるままに退くほかない。先までは後続の兵が斜面を埋めていたので下がるに下がれなかったが、それがちょうど撤退に転じて逃れるべき隙が生まれた。


 そこへ算を乱した兵衆が、(せき)を切った奔流(キヤト)のごとく押し寄せる。そのまま中軍まで雪崩(なだ)れこめば、先にサノウが言ったとおり「()()()()()」。恐慌はあっと言う間に伝播(でんぱ)して、少し退くつもりが一瞬にして潰走に変わってしまったのである。

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