表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
草原演義  作者: 秋田大介
巻一三
758/785

第一九〇回 ②

ムカリ耶律老頭を拐引(かいいん)して必生を期し

オノチ三色道人に肉迫して死命を制す

 シャギチは四頭豹に(まみ)えるべく陣中を駆けていたが、ほどなく中軍(イェケ・ゴル)が撤退せんとしていることを知った。となれば、わざわざ本営(ゴル)に出向くまでもない。もうひとつの任務(アルバ)を果たすことにした。


 というのは、ある異能の士を連れてムカリの(もと)へ戻ることである。なぜムカリが彼に固執しているのかは判らない。しかし理由などどうでもよい。ムカリがそれを望み、シャギチを信じて託したからには、必ず(こた)えるというだけの話。


 とはいえ、万騎(トゥメン)を超える兵衆が溢れる中、たった一人を捜しだすのは容易(アマルハン)ではない。あちらこちらと駆け回ったが、ただ(チャク)を費やして、気ばかり(はや)る。いよいよ困り果てて立ち尽くしていたところ、


「おや、貴殿はたしか亜喪神殿の……。こんなところで何をしておいでです?」


 見れば、ムライが馬上に拱手して笑みを浮かべている。シャギチはこの策士をあまり好きではなかったが、(うやうや)しく返礼して言うには、


「これはこれはムライ様。実はムカリ様に命じられて人を捜しています」


「ほう、この(ソオル)の最中にどなたを?」


 そこで名を挙げて所在を問えば、ムライは幾度も頷いて、


「それなら存じております。ともに参りましょう」


 シャギチは一瞬愁眉を開きかけたが、むくむくと疑念が湧き起こって、


(ウネン)でございますか?」


 つい訊き返せば、ムライはからからと笑って、


「何をお疑いです。我らは同志(イル)ではありませんか。さあ、今は時が惜しい」


 (うなが)されるままにあとに続く。やがて辿り着いたのは、本営近くに建てられた幕舎(チャチル)のひとつ。


「こちらですよ。さあさあ」


 ムライが先に立って、シャギチを導く。半ば疑いつつ戸張(エウデン)をくぐれば、果たして一個の老人(エブゲン)が端座している。周囲には門弟と(おぼ)しきものたち。いずれも茫乎(ぼうこ)(注1)たる表情で、黙然と(たたず)んでいる。シャギチは進み出て拱手すると言うには、


九声鸚(きゅうせいおう)様とお見受けしました。我が(エヂェン)がお呼びです。疾く参られよ」


 これぞムカリが求めていた人物、すなわち九声鸚こと耶律老頭であった。


承知(ヂェー)


 耶律老頭は短く答えると、すぐに門弟たちに命じて出立の準備を整える。シャギチは密かに安堵の(アミ)を漏らした。何となれば、なぜムカリの許へ行かねばならぬのか、四頭豹の許しは得ているのか、などとあれこれ詮索されたら答えようがなかったからである。


 シャギチは知らぬことだが、耶律老頭には()()()()()()()()()()く諸言語を解し、人の言うことならばどんなものでもすらすらと訳して見せるが、自ら何かを考え、述べることはほとんどない。いっそ見事なまでに(くう)である。言わば(チフ)から入った言葉(ウゲ)を変換して、ただ(アマン)から出す箱のようなもの。


 それはともかく、もたもたしている暇はない。幕舎はそのままに一行は騎乗する。門弟たちは一応武装しているが、耶律老頭は軽い皮甲を身に着けただけである。これをどうにか守って、ムカリと合流(べルチル)しなければならない。気を引き締めているところにムライが声をかけて言うには、


「貴殿にひとつお願いがあります」


「何でしょう?」


 (フムスグ)(しか)めて早口に(ただ)せば、


「私も連れていってください。きっとお役に立ちますよ」


「しかし、貴公は相国(サンクオ)様に……」


 逡巡していると、ムライはこれを()かして、


「よいのです。迷っているときではありません。参りましょう!」


 勢いに押されてシャギチは小さく頷く。こうして一行は、撤兵の流れに逆らって(モル)を戻ることになった。


 ムライが本営を離れてシャギチに同行したのは、いつもの悪癖。ムライにはいわゆる忠心(シトゥルグ)()()()()()()()()()。誰であれ主君が劣勢に立てば、敗北が明らかになる前に必ず遁走(オロア)する。これまで彼に見放されたものは、ことごとく滅び去った。クル・ジョルチ部のセイヂュク然り(注2)、デゲイ然り(注3)、そして隻眼傑(ソコル・クルゥド)シノン然り(注4)である。


 今また四頭豹を見限ったわけだが、何と云ってもあの四頭豹、同じように破滅するとは限らない。ムライの選択が正しいかどうかはいずれ判ること。


 前線に近づくころには、さらに戦況は悪化の一途。中軍撤退の報も広まって士気は振るわず、命令(カラ)に逆らって逃げだすものもあとを絶たない。殿軍に任じられた三色道人とその兵衆こそ陣形(バイダル)を保って踏み止まっていたが、中央(オルゴル)にあったムカリ軍は、すっかり軍の体裁を成していない。北軍の精鋭たちに追われまくって為す術もなく崩れていく。


 シャギチは(ニドゥ)(みは)って言うには、


「ああ、これは何と云う……」


 と、そこへ一騎猛然と駆けてくる将がある。はっと身構えたが、よくよく見れば何と亜喪神ムカリ。驚きのあまり口も()けずにいると、


「おう、シャギチ。無事に責務を果たしたようだな。そこにあるのが九声鸚か」


 ムカリは、ふとムライがいるのに気づいて怪訝(けげん)な表情を浮かべたが、特にわけも聞かずににやりと笑うと、


「よくやった。離脱(アンギダ)するぞ、俺に()いてこい!」


 高らか(ホライタラ)に宣言して馬首を(めぐ)らす。(アクタ)を馳せながら、(ようや)くシャギチは遠慮がちに言った。


「勝敗は兵家の常なれば、どうかお気になさらず。しかしながら、よもやムカリ様に従うものが一兵もないとは……」


 するとムカリは呵々と笑って言った。


「思い違いをするな。()()()()()()()()()()()()。身軽なほうが逃げやすかろう。(にわ)かに将を失った奴らのほうは、さぞあわてたろうがな」

(注1)【茫乎(ぼうこ)】呆気にとられるさま。また、気が抜けてぼんやりとするさま。呆然。


(注2)【セイヂュク然り】第一二一回②参照。


(注3)【デゲイ然り】第一三二回③参照。


(注4)【シノン然り】第一五二回③参照。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ