第一九〇回 ②
ムカリ耶律老頭を拐引して必生を期し
オノチ三色道人に肉迫して死命を制す
シャギチは四頭豹に見えるべく陣中を駆けていたが、ほどなく中軍が撤退せんとしていることを知った。となれば、わざわざ本営に出向くまでもない。もうひとつの任務を果たすことにした。
というのは、ある異能の士を連れてムカリの許へ戻ることである。なぜムカリが彼に固執しているのかは判らない。しかし理由などどうでもよい。ムカリがそれを望み、シャギチを信じて託したからには、必ず応えるというだけの話。
とはいえ、万騎を超える兵衆が溢れる中、たった一人を捜しだすのは容易ではない。あちらこちらと駆け回ったが、ただ時を費やして、気ばかり逸る。いよいよ困り果てて立ち尽くしていたところ、
「おや、貴殿はたしか亜喪神殿の……。こんなところで何をしておいでです?」
見れば、ムライが馬上に拱手して笑みを浮かべている。シャギチはこの策士をあまり好きではなかったが、恭しく返礼して言うには、
「これはこれはムライ様。実はムカリ様に命じられて人を捜しています」
「ほう、この戦の最中にどなたを?」
そこで名を挙げて所在を問えば、ムライは幾度も頷いて、
「それなら存じております。ともに参りましょう」
シャギチは一瞬愁眉を開きかけたが、むくむくと疑念が湧き起こって、
「真でございますか?」
つい訊き返せば、ムライはからからと笑って、
「何をお疑いです。我らは同志ではありませんか。さあ、今は時が惜しい」
促されるままにあとに続く。やがて辿り着いたのは、本営近くに建てられた幕舎のひとつ。
「こちらですよ。さあさあ」
ムライが先に立って、シャギチを導く。半ば疑いつつ戸張をくぐれば、果たして一個の老人が端座している。周囲には門弟と思しきものたち。いずれも茫乎(注1)たる表情で、黙然と佇んでいる。シャギチは進み出て拱手すると言うには、
「九声鸚様とお見受けしました。我が主がお呼びです。疾く参られよ」
これぞムカリが求めていた人物、すなわち九声鸚こと耶律老頭であった。
「承知」
耶律老頭は短く答えると、すぐに門弟たちに命じて出立の準備を整える。シャギチは密かに安堵の息を漏らした。何となれば、なぜムカリの許へ行かねばならぬのか、四頭豹の許しは得ているのか、などとあれこれ詮索されたら答えようがなかったからである。
シャギチは知らぬことだが、耶律老頭には己というものがない。能く諸言語を解し、人の言うことならばどんなものでもすらすらと訳して見せるが、自ら何かを考え、述べることはほとんどない。いっそ見事なまでに空である。言わば耳から入った言葉を変換して、ただ口から出す箱のようなもの。
それはともかく、もたもたしている暇はない。幕舎はそのままに一行は騎乗する。門弟たちは一応武装しているが、耶律老頭は軽い皮甲を身に着けただけである。これをどうにか守って、ムカリと合流しなければならない。気を引き締めているところにムライが声をかけて言うには、
「貴殿にひとつお願いがあります」
「何でしょう?」
眉を顰めて早口に質せば、
「私も連れていってください。きっとお役に立ちますよ」
「しかし、貴公は相国様に……」
逡巡していると、ムライはこれを急かして、
「よいのです。迷っているときではありません。参りましょう!」
勢いに押されてシャギチは小さく頷く。こうして一行は、撤兵の流れに逆らって道を戻ることになった。
ムライが本営を離れてシャギチに同行したのは、いつもの悪癖。ムライにはいわゆる忠心がさっぱり欠けている。誰であれ主君が劣勢に立てば、敗北が明らかになる前に必ず遁走する。これまで彼に見放されたものは、ことごとく滅び去った。クル・ジョルチ部のセイヂュク然り(注2)、デゲイ然り(注3)、そして隻眼傑シノン然り(注4)である。
今また四頭豹を見限ったわけだが、何と云ってもあの四頭豹、同じように破滅するとは限らない。ムライの選択が正しいかどうかはいずれ判ること。
前線に近づくころには、さらに戦況は悪化の一途。中軍撤退の報も広まって士気は振るわず、命令に逆らって逃げだすものもあとを絶たない。殿軍に任じられた三色道人とその兵衆こそ陣形を保って踏み止まっていたが、中央にあったムカリ軍は、すっかり軍の体裁を成していない。北軍の精鋭たちに追われまくって為す術もなく崩れていく。
シャギチは目を瞠って言うには、
「ああ、これは何と云う……」
と、そこへ一騎猛然と駆けてくる将がある。はっと身構えたが、よくよく見れば何と亜喪神ムカリ。驚きのあまり口も利けずにいると、
「おう、シャギチ。無事に責務を果たしたようだな。そこにあるのが九声鸚か」
ムカリは、ふとムライがいるのに気づいて怪訝な表情を浮かべたが、特にわけも聞かずににやりと笑うと、
「よくやった。離脱するぞ、俺に蹤いてこい!」
高らかに宣言して馬首を廻らす。馬を馳せながら、漸くシャギチは遠慮がちに言った。
「勝敗は兵家の常なれば、どうかお気になさらず。しかしながら、よもやムカリ様に従うものが一兵もないとは……」
するとムカリは呵々と笑って言った。
「思い違いをするな。俺が奴らを棄ててきたのだ。身軽なほうが逃げやすかろう。卒かに将を失った奴らのほうは、さぞあわてたろうがな」
(注1)【茫乎】呆気にとられるさま。また、気が抜けてぼんやりとするさま。呆然。
(注2)【セイヂュク然り】第一二一回②参照。
(注3)【デゲイ然り】第一三二回③参照。
(注4)【シノン然り】第一五二回③参照。




