第一八八回 ①
ナユテ理を用いて林孟辰の妖術に対し
ハレルヤ力を奮いて尸解兵の機巧を暴く
さて、舞台は変わらずツァビタル高原。対峙する南北両軍の兵力は拮抗していたが、将兵の質においては神箭将ヒィ・チノ率いる北軍が勝っていた。しかし南軍の尸解道士こと林孟辰が、妖術と称して連日暴風を起こしたため、北軍はたびたび守勢に回らざるをえない。
その状況を打破したのは、神道子ナユテ。日時を定めてかの妖術を破らんとて、癲叫子ドクトと白夜叉ミヒチに助力を請う。かたや奏楽の技能を恃み、かたや容姿の艶冶(注1)を活かす。
刻限に至って三台の車に分乗すると、盤天竜ハレルヤ、雷霆子オノチ、病大牛ゾンゲルの武威を随えて、どっと押しだす。ほどなくドクトの奏でる馬頭琴は耳を擒え、ミヒチの舞う姿は目を奪い、ナユテの唱える祝詞はテンゲリに達する。
と、あれだけ吹き荒れていた暴風が嘘のように卒かに止んだ。北軍の将兵はわっと歓声を挙げて、一斉に攻めかかる。南軍は支えきれずに数里も後退して、後背の丘の中腹にて漸く踏み止まった。
それを見たヒィ・チノは、今日はこれで十分とて早々に撤退の令を下す。しかし敵が退いただけ本営を前進させることは忘れない。新たに陣を定めて、帰還する将兵を迎えた。戦果が報じられるたびに賞賛や歓呼の声が挙がる。中でも沸きたったのは、もちろんナユテたちが戻ったときである。
ヒィ・チノは満面の笑みで歩み寄ると、その手を取って言うには、
「まったく君の異能にはいつも驚かされる。今日の勝利はすべて君のおかげだ」
ナユテが答えて言うには、
「まさか。始めに超世傑が善く戦い、ついにはみなが善く機を捉えたからだ。そもそも風のことは異能でも何でもない」
「そう謙遜しなくても。現に君たちが風を鎮めたではないか」
するとナユテは大笑して、
「やはりまだ妖術の毒が抜けてないな。よいか、風は私が何もしなくても、きっかりあのとき止んだろうよ」
「何もしなくても」
「然り。言っただろう、術ではなく理をもって術を破る、と。私はただ風が止むことを知っていたに過ぎない。あとのことは、あくまで兵衆に向けた演出だ」
傍らからミヒチが口を挟んで、
「それにしたって、どうして風が止むとわかったんだい。神道子の言うとおりにはしたけど、あの瞬間には私だってずいぶん驚いたんだよ」
ナユテはふふんと笑って、
「それについては、長らく西原で暮らしたことが活きた。東原の君たちはよく知らぬだろうが、西原では春になると、漠土の砂を含んだ暴風が吹きすさぶ(注2)。ここに来て天候を観察した結果、この風は西原のそれに酷似していた……。いや、紛れもなくその残滓だと確信した。それならばあとは容易い。西原の風が止むときと同じように止むに違いないのだから」
「その兆候を正確に見極めて、さも術を破ったように見せた……」
ミヒチの呟きに頷いて、
「然り。聞いてみれば、たいした話ではないだろう」
しかし居並ぶ諸将は等しく感心して、ナユテの並々ならぬ知能に改めて感服した。そしてまた敵の道士の浅慮をおおいに嗤ったのは言うまでもない。
一方、敗れた南軍の本営では、四頭豹が静かに尸解道士を問い詰めていた。
「少々、功を焦ったな。敵人のほうが優秀な道士を抱えていると見える」
通辞の九声鸚こと耶律老頭がそれを伝えると、真っ青な顔であわてて言うには、
「お待ちください! たしかに風の術は破られましたが、私の力はこんなものではありません。次の一手こそ我が本領、これまで破られたことはございませぬ」
「ほう、ずいぶんと壮語したな。では今一度、雪辱の機会をくれてやろう。インジャの本軍が至る前に、神箭将を破っておきたいところ。期待してよいのだな」
「無論でございます! 明日にも我が『尸解兵』を召喚し、先陣を切って敵を退けてご覧に入れましょう」
四頭豹は初めて興味を示して、
「尸解兵?」
「いかにも。我が異名は尸解道士、その由来となった秘術にございます」
「どういった術だ」
林孟辰は漸く余裕を取り戻して、
「ふふふ、それは明日のお楽しみでございます。我が尸解兵が必ず敵の戦列を崩します。そこで総軍挙げて突撃すれば防ぐ術はありますまい」
「よかろう。やってみるがよい」
「ありがたき幸せ。きっと相国のご期待に応えましょう」
恭しく拱手して小趨りに退出する。四頭豹は、僅かに首を傾げて、
「あの愚かな道士にたいした術ができるとも思えぬが……。まあ、万が一ということもある。攻勢の準備だけはしておいてやろう」
あれこれ命じてしまうと、人を遠ざけて沈思黙考していたが、俄かに眉間に深い皴を刻んで、
「私ともあろうものが、あんな道士の戯言に耳を傾けたのがそもそもの過ちよ。風がそろそろ止むことは判っていたのに、つい彼奴の自信めいた口吻(注3)に流されるとは。妖術とやらが実のない虚ろなものであることは自明のことであるのに」
だが次の瞬間にはもとの泰然とした表情に戻って、
「まあよい。肝要なのはこのあとだ。明日までは児戯につきあってやろう。さて、次はどんな奇術を披露してくれるのかな」
すでに口の端には笑みすら浮かんでいたが、くどくどしい話は抜きにする。
(注1)【艶冶】艶めいて美しいこと。
(注2)【西原では春になると……】第七 四回②参照。
(注3)【口吻】口ぶり。言いかた。




