第一八六回 ③
ハレルヤ人外の勇を揮いて亜喪神を退け
ヒィ・チノ妖風の害を憂えて神道子を招く
というのも、左翼にあったチンラウト軍五千が、ムカリ勢の側面を援護するように漸進しはじめたのである。ハーミラ率いる紅百合社の五千騎もことごとく騎乗して、今にも飛びだそうとする構え。
これに正対するのは、ムジカの一万五千騎。陣頭の皁矮虎マクベンが血気に逸って突出せんとするが、辛うじて笑小鬼アルチンが制する。本営に早馬を送れば、ムジカは碧水将軍オラルに諮って、
「さて、どうしたものかな」
答えて言うには、
「奸謀を疑うべきだ。軽挙は慎んだほうが良い」
ムジカはおおいに喜んで、
「まったく同感だ」
すぐに前線に命令を下して妄動を戒める。マクベンは不服そうに眉を顰めたが、すかさずアルチンに窘められる。
一方、敵の右翼は、ゴルバン・ヂスンの一党。こちらも俄かに伝令が忙しく行き交い、ただならぬ気配を示す。それを遠望したギィは、やはり傍らの蓋天才ゴロを顧みて、
「しかけてくるかな?」
問えば、ゆっくりと首を振って、
「いや、おそらくは陽動に過ぎぬ。だが、陰かに何か企んでいると看るべきだ」
ギィはからからと笑って、
「なるほど。セチェン(知恵者)の思考とは実に面倒なものだ。好し、正面に捉われず、広く警戒するようみなに伝えよ」
命を受けた迅矢鏃コルブ、隼将軍カトラ、鳶将軍タミチら諸将は、四囲に十分に目を配る。
果たしてそれが功を奏する。
再びムカリがナルモント軍と干戈を交えて幾許か経ったころのこと。ギィの預かる左翼のさらに東方、高原の尽きるところ、すなわちなだらかに土地が下ったその彼方から、卒かに軍勢が現れた。どっと喊声を挙げて突撃してきたのは、飛天道君トウトウの五千騎。高地から見えぬ死角を辿って近接したもの。
「ほう、蓋天才の予見が中たったぞ」
ギィは嬉しそうに言うと、あわてることなく迎え撃つ。すでにして備えてあれば、将兵に動揺するものもない。一斉に馬首を転じて、整然と立ち向かう。
これには奇襲をかけたトウトウのほうが惑乱を免れない。敵人の意表を衝いて自在に暴れ回るはずが、いざ兵を合わせてみれば完全に真っ向から激突したからである。よって、ほどなく散々に追い散らされる。
そうこうするうちに吹き荒れていた風が徐々に治まる。梁軍は、疲労のためか車上に膝を突いた尸解道士を守って、粛々と退いていく。ついに撤退を命じる銅鑼が鳴り亘って、執拗に留まっていたムカリ軍も漸く反転する。
こうして初日の戦は、北軍がやや優勢のうちに了わった。南軍は風とともに襲来し、風とともに退却した。ヒィ・チノは夕刻になると、両翼の諸将を幕舎に召致して言うには、
「戦そのものは大過ないが、あの強風……。あれをどう思う?」
「うひぃ」
思わず声を挙げたのは、近侍する病大牛ゾンゲル。どうやら魔術を疑って怖れている様子。ヒィ・チノは僅かに眉を顰めたが、かまわず続けて、
「梁軍中に怪しげな道士の姿を認めたが……」
「俺も見たぞ! だが、単に風を吹かせるだけのこと。怖れる必要があろうか」
遮るように吠えたのはドクト。ギィが呵々と笑って、
「あれが真の道術としたら、風を吹かせるだけとはかぎるまい」
「すると獅子は、あれを真の道術と看るか」
ヒィ・チノが意外に思って問えば、いよいよ笑って、
「まさか! だが不思議なことではある。何より兵衆の中には怖れるものもある。放ってはおけまいよ」
「それはそうだが、ただ怖れるなと言ってもな。人の心情は御しがたい」
と、珍しく隅でおとなしくしていたミヒチと目が合う。
「何か言いたそうな顔だな、白夜叉」
「そんな顔してませんよ!」
「お前には考えがあるだろう」
ミヒチはやや頬を膨らませて、
「道術なんて実際に見たことありませんからね。私には考えなんてありません」
「私には?」
聞き咎めれば、
「まったくうちのハンは耳が良いね! ええ、そうですよ。俗に謂うじゃありませんか。『馬のことは馬飼いに訊け』ってね」
「そうか、お前が言うのは……」
「ええ。私らがあれこれ言い合ったって、何にもなりゃしません。この類の話は神道子に諮るべきです」
ヒィ・チノはおおいに喜んで、早速キセイを送りだす。彼がナユテを連れて戻るまでは、専守に徹することとして解散する。
翌日もまた昼過ぎから、風が起こるとともにムカリ軍が攻め寄せる。やはり梁軍の守る車の上には件の道士があって、一心にテンゲリに祈りを捧げている。北軍の将兵には、ますます怖気づくものもあって何とも気勢が上がらない。それでも名将たちの差配よろしきを得て、敵は得るところもなく退く。
この日は飛天道君の奇襲もなかったが、それもそのはず、東方へは黒鉄牛バラウンを、西方へはアルチンをそれぞれ遣って哨戒させたからである。
こうして小競り合いを繰り返しつつ、待つこと三日。キセイがナユテを伴って帰還した。




