第一八六回 ②
ハレルヤ人外の勇を揮いて亜喪神を退け
ヒィ・チノ妖風の害を憂えて神道子を招く
ムカリは相も変わらぬ豪勇無双、北軍の将兵をまるで寄せつけぬ鬼神のはたらき。もとより衛天王カントゥカと盤天竜ハレルヤを除けば、草原に当たりうるものとてない豪のもの。
先にその両雄に弄ばれて折れかけた自信もたちまち回復して、おおいに暴れ回る。その兵衆もまた発奮して、一騎当千の猛勇を示す。
さりとて北軍の先陣を担うのもまた天下に名高き勇将たち。よく踏み止まって、しっかりと戦列を維持する。一進一退の攻防を繰り広げて、やがて膠着に至る。業を煮やしたドクトはオノチに諮って、
「亜喪神さえ封じれば、たいした敵ではない。参るぞ!」
返辞も聞かずに三叉矛を高々と掲げて馬腹を蹴る。それを見たオノチは、
「承知」
短く応えて、あとに続く。時を同じくして、ナルモントのモゲトもまたムカリを抑えんとて、兵衆をカノンに委せて突進してくる。かくして三将が力を併せてこれを取り囲み、一斉に撃ちかかった。
ムカリはひとつ舌打ちすると、
「あああ、鬱陶しい! この雑魚どもがぁっ!!」
戦斧をぐるりと旋回させれば、三方からの攻撃を一度に弾き返す。しかしそれで怯む三将ではない。右から左から前から後から、代わる代わる得物を繰りだす。さすがの亜喪神も息をする暇もない。
そうして主将が足を止められている間に、徐々に北軍が押し返しはじめる。カノンに加えて中軍よりミヒチも駆けつけ、この両個の女将軍の沈着な指揮が功を奏する。
ドクトの睨んだとおり南軍はムカリあっての剛勇、副将たるシャギチとて決して無能ではないが、いかんせん練度の差は覆いがたい。
ところが今にも崩れようかという瞬間、ごぉっと天空より突風が吹きつけて、北軍の将兵は肝を潰す。
彼方を見遣れば、いつの間にか梁軍が数百歩ほど前進している。先頭の車上にあるのは怪しげな風体の道士。何やら一心に呪文を唱えている様子。さてはかのものの仕業かと訝り、懼れるうちにムカリ軍は息を吹き返す。
巫術の類を嫌うヒィ・チノは、眉を顰めて、
「この世に風を操る術などあろうはずがない。偶々の突風を、さも魔法のごとく装っているに違いない」
とはいえ、無智の兵卒が恐れを抱くのはやむをえない。そこで金鼓を鳴らしてこれを正気に返し、旌旗を振るって統制せんと試みる。漸く乱れかけた陣形を整えたが、すでに優勢は失われて再び膠着に陥る。
そんな戦局を一変させたのは、一人の猛将。亜喪神ではない。先にヒィ・チノより前軍へ移るよう要請されたハレルヤが、ついに大刀を引っ提げて駆けつけたのである。
彼は単騎自陣を飛び出すと、そのまま躊躇なく敵軍の側面より突入した。まことに不羈を矜る魔軍の長に相応しい方途。
何とたった一騎の突撃に、ムカリ軍はどっと浮足立つ。まるで羊毛でも刈るがごとく、みるみる戦陣が削がれていく。大刀が閃くたびに、まとめて二騎、三騎と命を落とす。
瞬く間に数十騎が戦場の露と消えた。ハレルヤは息ひとつ切らさず、淡々と屍の山を築きながら突き進む。
副将のシャギチが愕然として戦列を立て直そうとしたが、兵衆は恐慌を来してどうにもならない。雄心あるものは辛うじて逃げ惑い、雄心なきものに至っては竦んでいるうちに討たれる。
「おのれ、盤天竜め」
シャギチは憤慨して弓を手にすると、ひとまず兵の指揮は諦めて、そっとハレルヤの後背に回り込む。幸いにして見つかることなく、狙われていることに気づいた様子もない。雀躍して心のうちで叫ぶ。
「おお、これぞ天祐! 私があの人外を葬ってくれようぞ!」
この機を逃すまじとて、ひょうと矢を放つ。
次の瞬間、シャギチは我が目を疑った。あろうことか、ハレルヤはさっと身を捩って、飛来する矢をいとも容易く避けてしまったのである。そして悠然と馬首を廻らすと、涼しげな顔でまっすぐシャギチに視線を注ぐ。
「あ、あ、あいつは背後にも目が付いているのか!」
シャギチは途端に縮みあがって歯の根も合わなくなる。手も思うように動かず、いつの間にか弓も落としてしまっている。
さらにハレルヤがおもむろにこちらに向かってきたのを見ては、生きた心地もしない。あわてて手綱を執ろうとするが、目の前にあるにもかかわらず、うまく拏むことができない。視野も次第に狭窄して、ひたすら焦るばかり。
「あ、あ、あ、死ぬ、死ぬ。逃げなければ、逃げなければ。手綱、手綱、どうして手綱が握れない!?」
惑乱するシャギチの耳に叱咤の声が飛び込む。
「おい、しっかりしろ! 俺がここにあるぞ!」
はっとして顧みれば、そこにはムカリの姿。自軍の危殆を察して、何とかドクトらを振りきってきたもの。
「あ、ああ、ムカリ様!!」
俄かに安堵して、ぱっと視界が開ける。
「少し退くぞ。おそらく神箭将は追ってこない。そうすれば、いくら盤天竜といえども単騎にて深追いはするまい」
「はい!」
主従は並んで逸散に離脱する。退却の金鼓が鳴り響けば、将兵もほっとしてこれに続く。しかし中軍から撤退の命令は出ていない。そこで中途で足を留めて、態勢を整えることにする。
案の定、ヒィ・チノはこれを去るに任せて追撃しなかった。というのも、彼の任務は後続の軍勢が来るまで陣地を確保しておくことであって、あえて決戦に訴える必要はなかったからである。
強風はまだ吹き続けている。ツァビタル高原における戦は始まったばかり。緒戦にムカリの突貫を退けたとはいえ、試みに手を合わせた程度のこと。両軍が対峙する形勢に何ら変化はない。
やがてムカリ軍は再び前進に転じる。とともに南軍のほかの軍勢にも、先とは違う動きがあった。




