第一八五回 ②
ムカリ盤天竜より遁れて衛天王に遭い
インジャ四頭豹を追いて堅石盟を派す
何とムカリは、戦斧を振りかぶったかと思いきや、そのままハレルヤ目がけて投げつけてきたのである。これにはまったく意表を衝かれる。ぶんぶんと唸りを挙げて回転する戦斧を、すんでのところで躱せば、運悪く後方にいた騎兵の顔面を叩き潰す。
さすがのハレルヤもひやりとして、ふうと息を吐きながら身を起こすと、すでにムカリの姿はない。逸散に遠ざかっていく背が見えるばかり。ハレルヤは悔しがるでもなく、ただ呟いて言うには、
「まさか得物を擲つとは。おもしろい奴だ」
窮地を脱したムカリは、全力で疾駆して引き返す。途上、持ち主を失った槍が散乱している中から見繕って、仮の得物とした。戦況はこれ以上ないくらいの惨状を呈している。連れてきた兵衆は四分五裂、そもそも主将のムカリ自身が己の身を保つのがやっとの有様ではどうしようもない。
「ともかく生き延びることだ。あとのことはあとで考えればよい」
逃れるためには前に進むほかない。味方の死屍を飛び越えて、出口を指す。先には人馬が密集して自由に動けなかったその箇所も、多くのものが討たれたおかげで、かえって通行できるほどの隙があった。
「ここさえ抜ければ、あとは追撃を振りきるのみだ!」
降り注ぐ矢の雨を避け、さらに馬を急かして、ついに狭隘の地から躍り出る。開けた視界を埋め尽くすのは、もちろん敵の大軍。
ムカリが現れたのを見て、生き残っていたものがこれに依らんとて集まってきたが、それにも増して群がるのは功名を求める敵の将兵。ムカリはそれを突き伏せ、薙ぎ倒しつつ血路を開く。相手が盤天竜のごときものでなければ、やはり天下屈指の驍将、存分に猛勇を奮って当たりうるものすらない。
と、卒かに声をかけるものがあった。
「おい、亜喪神。戦斧はどうした?」
はっとして顧みたムカリは、心臓も止まらんばかりに驚いて、
「げっ! お前は!!」
信じられないことに、眼前にあるのは敵の帥将たる衛天王カントゥカ。自ら亜喪神を討ち取らんとて、周囲の制止も聞かずに前線に出てきたもの。不敵に笑って言うには、
「お前に戦斧の使いかたを教えてやろうと思ったのだがな」
言うまでもなくカントゥカの得物は二丁の戦斧。ムカリは絶望のあまり、がくがくと震えて思わず言うには、
「やっと盤天竜から逃れてきたのに今また衛天王に遭うとは、テンゲリは俺に死ねと言うのか!」
周りの兵衆も主君を援けるどころか、わっと悲鳴を挙げて逃げ散る。それもそのはず、誰が好んで竜虎の争いに巻き込まれよう。いつの間にか両軍の将兵は戦闘も忘れて、二人の猛将の対決に固唾を呑む。
カントゥカは余裕綽々、悠揚迫らぬ調子で言うには、
「俺の戦斧を一丁、貸してやろうか?」
ムカリは怒髪天を衝いて、
「ほざくな! これでも喰らえ!!」
喚きながら、鳩尾(みぞおちの意)に向かって刺突を繰りだす。鋭きこと迅雷のごとく、これぞ目にも留まらぬ早業。
しかし、かーん、と乾いた音が響く。必殺の一撃も易々と捌かれたのである。それだけではない。同時にもう一方の戦斧が、暴風のごとくムカリの頭蓋を襲った。
「げぇっ!!」
ムカリは咄嗟に首を縮めて、殆うくこれを躱す。鉄兜の尖端を掠めて火花が散ったほどの僅差。まさに間一髪。
「はっはっは、よくぞ避けた。ほら、もっとどんどん攻めてこい」
カントゥカが笑いつつ促したが、ムカリは瞬時に気力が萎えてそれどころではない。先のように迂闊に手を出せば、次こそは冥府に送られるやもしれぬ。思い返しただけでぞっとして、悸慄(注1)が止まない。
「どうした、亜喪神の名が泣くぞ」
いくら挑発されても、敵わないものは敵わない。またしてもムカリは、いかにしてここを逃れるか算段せざるをえない。とはいえ、手を合わせた実感としては実に衛天王のほうが盤天竜より難敵である。武勇の優劣は付けがたいが、何より衛天王のほうがその心性に容赦がない。
盤天竜にはどこか遊んでいる風もあったが、衛天王にはそれがない。僅かでも隙を見せれば途端に命を奪おうとしているのが、ひしひしと伝わる。まるで虎と相対しているようなもの。眈々と睨まれて、ぴくりとも動けない。
辛うじて槍は構えていたものの、顔は青ざめ、喉は渇き、額からは汗が流れ、目瞬きすらままならぬ。逃げる術を考えようにも、あちらこちらと思考が飛ぶばかりで一向に脳がはたらかない。
「いかん、このままでは俺は終わりだ!」
ぶるぶると頭を振って雄心を奮い起こす。俄かに叫んで言うには、
「おい、者ども! こいつは人じゃあない。大勢でかかれ! 俺とともにこの悪魔を殺せ!!」
カントゥカが僅かに眉を顰める。かまわずさらに呼びかけて、
「さあ、来い! この亜喪神とともに悪魔を討て!!」
呆然と観ていた兵衆は我に返ると、わあっと半ば自棄を起こしたような大喊声を挙げて、一斉に馬腹を蹴る。ウリャンハタの将兵もあわてて主君を護らんとて殺到する。
先に至ったのはムカリの兵。手に手に得物を掲げて、カントゥカに撃ちかかる。麾下の将兵がはっとするうちに戦斧一閃、近づいたものから順に腕が飛び、首が飛び、片端から骸と化す。
およそ十数騎が一瞬にして仆れたが、擦り傷ひとつ負わせられない。ウリャンハタの将兵はほっと胸を撫で下ろし、漸く駆けつけて後続の敵を撃ち払う。
そのときムカリは、すでに逃亡したあとであった。兵衆を嗾けただけで、ともに撃ちかかることなく即座に反転して去ったのである。
(注1)【悸慄】恐怖で震えること。「悸」は、恐れや驚きなどで心臓がどきどきすること。動悸。「慄」は、おそれおののくこと。戦慄。




