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草原演義  作者: 秋田大介
巻一三
738/785

第一八五回 ②

ムカリ盤天竜より(のが)れて衛天王に遭い

インジャ四頭豹を追いて堅石盟を派す

 何とムカリは、戦斧を振りかぶったかと思いきや、そのままハレルヤ目がけて投げつけてきたのである。これにはまったく意表を衝かれる。ぶんぶんと唸りを挙げて回転する戦斧を、すんでのところで(かわ)せば、運悪く後方にいた騎兵の顔面を叩き潰す。


 さすがのハレルヤもひやりとして、ふうと(アミ)を吐きながら(ビイ)を起こすと、すでにムカリの姿(カラア)はない。逸散(いっさん)に遠ざかっていく(ノロウ)が見えるばかり。ハレルヤは悔しがるでもなく、ただ呟いて言うには、


「まさか得物を(なげう)つとは。おもしろい(ソニルホルトイ)奴だ」


 窮地を脱したムカリは、全力で疾駆(ダブヒア)して引き返す。途上、持ち主を失った(ヂダ)が散乱している中から見繕(みつくろ)って、仮の得物とした。戦況はこれ以上ないくらいの惨状を呈している。連れてきた兵衆は四分五裂、そもそも主将のムカリ自身が己の身を保つのがやっとの有様ではどうしようもない。


「ともかく生き延びることだ。あとのことはあとで考えればよい」


 逃れるためには(ウリダ)に進むほかない。味方(イル)の死屍を飛び越えて、出口を指す。先には人馬が密集して自由(ダルカラン)に動けなかったその箇所も、多くのものが討たれたおかげで、かえって通行できるほどの隙があった。


「ここさえ抜ければ、あとは追撃を振りきるのみだ!」


 降り注ぐ矢の(クラ)を避け、さらに(アクタ)()かして、ついに狭隘(きょうあい)(ガヂャル)から躍り出る。開けた視界を埋め尽くすのは、もちろん(ブルガ)の大軍。


 ムカリが現れたのを見て、生き残っていたものがこれに()らんとて集まってきたが、それにも増して群がるのは功名を求める敵の将兵。ムカリはそれを突き伏せ、薙ぎ倒しつつ血路を開く。相手が盤天竜のごときものでなければ、やはり天下屈指の驍将、存分に猛勇(カタンギン)を奮って当たりうるものすらない。


 と、(にわ)かに(ダウン)をかけるものがあった。


「おい、亜喪神。戦斧はどうした?」


 はっとして顧みたムカリは、心臓(ヂュルケン)も止まらんばかりに驚いて、


「げっ! お前は!!」


 信じられないことに、眼前にあるのは敵の帥将たる衛天王カントゥカ。自ら亜喪神を討ち取らんとて、周囲の制止も聞かずに前線に出てきたもの。不敵に笑って言うには、


「お前に戦斧の使いかたを教えてやろうと思ったのだがな」


 言うまでもなくカントゥカの得物は二丁の戦斧。ムカリは絶望のあまり、がくがくと震えて思わず言うには、


「やっと盤天竜から逃れてきたのに今また衛天王に遭うとは、テンゲリは俺に死ねと言うのか!」


 周りの兵衆も主君(エヂェン)を援けるどころか、わっと悲鳴を挙げて逃げ散る。それもそのはず、誰が好んで竜虎の争いに巻き込まれよう。いつの間にか両軍の将兵は(カドクル)(ドゥアン)忘れて(ウマルタヂュ)、二人の猛将(バアトル)の対決に固唾(かたず)を呑む。


 カントゥカは余裕綽々、悠揚迫らぬ調子で言うには、


「俺の戦斧を一丁、貸してやろうか?」


 ムカリは怒髪(テンゲリ)を衝いて、


「ほざくな! これでも喰らえ!!」


 (わめ)きながら、鳩尾(オレ)(みぞおちの意)に向かって刺突を繰りだす。鋭きこと迅雷(アヤンガ)のごとく、これぞ(ニドゥ)にも留まらぬ早業。


 しかし、かーん、と乾いた音が響く。必殺の一撃も易々と(さば)かれたのである。それだけではない。同時にもう一方の戦斧が、暴風(ハラ・サルヒ)のごとくムカリの頭蓋(テリウ)を襲った。


「げぇっ!!」


 ムカリは咄嗟に首を縮めて、(あや)うくこれを躱す。鉄兜の尖端を(かす)めて火花が散ったほどの僅差。まさに間一髪。


「はっはっは、よくぞ避けた。ほら、もっとどんどん攻めてこい」


 カントゥカが笑いつつ(うなが)したが、ムカリは瞬時(トゥルバス)に気力が萎えてそれどころではない。先のように迂闊に(ガル)を出せば、次こそは冥府(バルドゥ)に送られるやもしれぬ。思い返しただけでぞっとして、悸慄(きりつ)(注1)が止まない。


「どうした、亜喪神の名が泣くぞ」


 いくら挑発されても、(かな)わないものは敵わない。またしてもムカリは、いかにしてここを逃れるか算段せざるをえない。とはいえ、手を合わせた実感としては実に衛天王のほうが盤天竜より難敵である。武勇の優劣は付けがたいが、何より衛天王のほうがその心性(チナル)に容赦がない。


 盤天竜にはどこか遊んでいる風もあったが、衛天王にはそれがない。僅かでも隙を見せれば途端に(アミン)を奪おうとしているのが、ひしひしと伝わる。まるで(カブラン)と相対しているようなもの。眈々(たんたん)と睨まれて、ぴくりとも動けない。


 辛うじて槍は構えていたものの、(ヌル)は青ざめ、(ホオライ)は渇き、(マグナイ)からは汗が流れ、目瞬き(ヒルメス)すらままならぬ。逃げる術を考えようにも、あちらこちらと思考が飛ぶばかりで一向に(タルヒ)がはたらかない。


「いかん、このままでは俺は終わりだ!」


 ぶるぶると頭を振って雄心(ヂルケ)を奮い起こす。俄かに叫んで言うには、


「おい、者ども! こいつは人じゃあない。大勢でかかれ! ()()()()()この悪魔(シュルム)を殺せ!!」


 カントゥカが僅かに(フムスグ)(しか)める。かまわずさらに呼びかけて、


「さあ、来い! ()()()()()()()()()悪魔を討て!!」


 呆然と観ていた兵衆は我に返ると、わあっと半ば自棄を起こしたような大喊声を挙げて、一斉に馬腹を蹴る。ウリャンハタの将兵もあわてて主君を護らんとて殺到する。


 先に至ったのはムカリの兵。手に手に得物を掲げて、カントゥカに撃ちかかる。麾下の将兵がはっとするうちに戦斧一閃、近づいたものから順に腕が飛び、首が飛び、片端から(むくろ)と化す。


 およそ十数騎が一瞬にして(たお)れたが、擦り傷ひとつ負わせられない。ウリャンハタの将兵はほっと(オモリウド)を撫で下ろし、(ようや)く駆けつけて後続の敵を撃ち払う。


 そのときムカリは、すでに逃亡(オロア)したあとであった。兵衆を(けしか)けただけで、ともに撃ちかかることなく即座に反転して去ったのである。

(注1)【悸慄(きりつ)】恐怖で震えること。「悸」は、恐れや驚きなどで心臓がどきどきすること。動悸。「慄」は、おそれおののくこと。戦慄。

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