第一八五回 ①
ムカリ盤天竜より遁れて衛天王に遭い
インジャ四頭豹を追いて堅石盟を派す
さて、四頭豹との合流を画する亜喪神ムカリは、対岸に展開している衛天王カントゥカらを欺こうと一計を案じた。すなわち、偽兵を配して敵人の耳目を集め、その隙に別途中原に入ろうというもの。
しかし知世郎タクカはその意図をたちまち看破、牙狼将軍カムカを遣って大軍が布陣したように装わせた。そうとは知らぬムカリは、てっきり策計が的中したものとて、隠れていた渓谷を飛び出した。
そしてついに全軍を率いて渡河を果たす。二日ほど駆けたが、まったく敵影がない。さては衛天王を欺きえたかと、やや安堵する。やがて険しい丘陵地に差しかかる。ここを過ぎれば道程の半ばを超えたも同然、意気揚々と踏み込んだ。
ところが、その前衛が丘陵地を抜けた途端、予期せぬ攻撃を受けた。驚くうちに左右の丘にも伏兵が忽然と湧いて矢の雨を降らせる。あわてて退かんとすれば、何と退路も塞がれている有様。
これを襲ったのは、もちろんカントゥカ帥いる北軍第五翼。聖医アサンの神智が冴えわたり、敵軍の行路を完全に読みきって待ち構えていたのである。
左右の伏兵を率いるのは、渾沌郎君ボッチギンと赫彗星ソラ、後方を扼したのは紅火将軍キレカの第四翼。四面ことごとく囲んで、猛攻を浴びせる。ムカリの兵衆は、羊を解体するようにみるみる失われていった。
ムカリは幾度か正面からの突破を試みたが、滞留する味方の人馬が障壁となって思うように動けない。かっとして俄かに反転すると、後方に活路を求めた。そこで見たものは、悪鬼のごとく暴れ回る盤天竜ハレルヤの巨躯。ムカリは目を瞠って、
「いかん、奴だけはいかん!」
強く手綱を引いて来た道を戻らんとするも、ハレルヤに目敏く見つけられる。
「おお、亜喪神ではないか。久しぶりに遊んでやるぞ」
言うや否や大馬がどうんと跳ねて、たちまち眼前に降り立つ。今さら背を向ければ、瞬時に大刀の餌食となるばかり、心を決めて闘うほかない。ムカリは爛々と目を瞋らせて、
「過日の俺(注1)と同じと思うなよ!」
そう嘯いたが、声音の奥に僅かに怯懦の色が雑じる。ハレルヤはそれを知ってか知らずか、ふふんと嗤うと、
「よし。では死闘せん」
とて、大刀をだらりと提げたまま、おもむろに間合いを詰める。ムカリは怒り心頭に発して、
「侮りおって! 後悔するなよ」
高々と戦斧を掲げて、うおおと雄叫びを挙げる。並のものならば、その声を聞き、姿を見ただけで身は竦み、戦意を喪うところだが、ハレルヤは涼しい顔で、
「吼えるな。撃ってこい」
ムカリは激昂して身を沈めるや、馬に気合いを入れてまっしぐらに突進する。この難敵に様子を探る余裕などないとて、初手から必殺の奥義を繰りだす。
があん、と鋼が打ち合う音が轟く。ムカリ渾身の一撃も、ハレルヤが軽々と弾いたのである。
「ちぃっ!! これならどうだ!」
重さ数十斤の戦斧を、まるで竹の鞭のごとくびゅんびゅんと振り回して、縦横斜めと問わず、乱れ打ちに斬撃を浴びせる。
「ほう」
ハレルヤの目が僅かに見開く。しかし大刀をひらりひらりと舞わせて、ことごとく防ぎきる。再び両騎が離れたとき、ムカリは顔を真っ赤にして荒い息を吐いていたが、ハレルヤのほうは汗ひとつ掻いていない。それどころか左手を手綱から放してすらない。
「なるほど、少しは上達したようだ」
ハレルヤが笑いかければ、ムカリはぞっとしておもえらく、
「俺とて決して人後に落ちるものではないと自負しているが、こいつと衛天王だけは人の間尺では測れぬ。まことに常軌を逸した人外の輩だ」
「どうした、もう終わりか。ならば、俺から参るぞ」
そう言うと、ゆらりと大刀の尖端を立てる。はっとする間もなく、次の刹那には刃先がするすると空を滑って、ムカリの頸脈に迫っていた。
「わっ、わっ、わっ!」
あわてて仰け反り、戦斧を旋回させて辛うじてこれを弾く。常人ならば、すでに命を失っていたところ。
「さすがは亜喪神、やるではないか!」
ハレルヤは嬉々として次の一手を放つ。これもまた速く、強く、正確無比な一撃。何とか躱したが、まるで生きた心地がしない。
「こ、こ、これでは命がいくつあっても足りぬ」
ムカリは焦燥に駆られて、どうにかこの場を離脱できぬものかと無い智慧を絞る。あれこれと考えを巡らせたあげく、卒かにハレルヤの後方を指して、
「あっ!!」
と、叫び声を挙げる。そうして今だとばかりに猛然と戦斧を振り上げたが、かかる児戯に盤天竜ともあろうものが騙されるわけもない。一瞬たりとも視線を外すことなく、呵々と嗤って、
「おいおい、がっかりさせるな……」
言いかけたところで、はっと息を呑む。
(注1)【過日の俺】かつてムカリは、ハレルヤに一騎討ちを挑んで、まるで敵わなかった。12年前のことである。第八 三回③参照。




