第一八四回 ④
義君ヴァルタラに四頭豹の影を擒え
聖医ガハインに亜喪神の策を量る
蹤いてくるなと言われたシャギチは不満げに答えて、
「全軍を保って相国と合流する以上に重要な任務などありましょうや。将軍は私を恃みとしないおつもりか」
「何を言う。むしろもっとも信頼あるお前にしか嘱めないことなのだ」
「それはいったい何でしょう?」
ムカリはぬっと顔を寄せると、声を潜めて言った。
「カンを護って俺とは別の方角から中原に入り、ダナ・ガヂャルまで届けてほしい。そこにジャンクイ・ハーン(注1)が兵難を避けてオルドを構えている。このことは余人には委せられぬ」
これを聞くやたちまち了承して、
「承知。必ず送り届けましょう」
「嘱んだぞ。カンを預けたら速やかに相国の下に参れ」
「はい。お互い無事に相見えましょうぞ」
主従というより盟友に等しい二人は、再会を約して別れた。シャギチはヂュルチダイを伴って、まずはイシへ赴いた。そこで隊商に扮して中原を目指す。彼らがダナ・ガヂャルに達したかどうかは、のちに述べることにする。
さて、ムカリである。兵を隠しておいた渓谷を発つと、一路メンドゥ河を指す。周囲を怠りなく警戒しながら疾駆したが、幸いにして誰にも遭わなかった。
「ますます好い。テンゲリの佑けがある」
ほくそ笑んで、さらに兵を急がせる。無事に河岸に達すると、斥候を先に遣って渡渉させる。騎馬のまま支障なく渡れることはもちろん、辺りに敵影がないことも判ったので、いよいよ喜んで全軍に渡河を命じた。
対岸に着いたものから速やかに離れて、とある平原に参集させる。隊列を整えて兵を算えれば、一騎たりとも欠けていなかった。
「好いぞ、好いぞ。あとは南原まで駆けるばかりだ」
俄然昂揚して進発の命を下す。しかし気は逸れども、行く先は遙か彼方。まだ無事に辿り着くと決まったわけではない。征くべき道程は数百里、最初の二日間は何ごとも起きなかった。万が一に備えて始終気を張りつめていたが、漸く安堵を覚えはじめる。
「児戯に等しい愚策だったが、好運にも衛天王の目を欺いたらしいぞ」
三日目が明けて意気揚々と出立する。旌旗は風を受けてはためき、刀槍は陽を浴びて煌めく。遮るものなき広大な草原を、二万数千の騎兵が堂々と駆けていく。ムカリも溌溂たる心地で馬を駆りながら、それでも内心おもえらく、
「敵軍はおろか、斥候らしきものすら見当たらぬ。だが彼奴らを侮ってはならん。たとえ今は敵影が見えなくとも、間道があれば間道を通るべきだ。もうすぐ険しい丘陵地がある。大軍ゆえ迂回したほうが速いには違いないが、その合間を縫って行けば、発見される危険を冒さずに道程を稼げるというものだ」
いざそこに至ると、ムカリの軍勢は縦列となって踏みこんでいく。左右に小高い丘が連なっていて、たしかにこれならば遠くから見つけられることはない。
「何から何までうまく運んでいる。ここを抜ければ、道程の半ばは消化したようなものだ」
ムカリは自らの選択に満足して、呵々と笑った。
ところが、まもなく丘陵地を抜けようというときに異変が起こった。すでに前衛たる三分の一ほどの兵は平原に出ていたが、卒かに混乱に陥って右往左往、怒号やら悲鳴やらが交錯する。まだ後方を進んでいたムカリは、わけがわからぬままに、
「どうした? 何があった」
問いかけたが、もちろん誰も答えられない。そこに急使が馳せてきて、
「敵襲! 敵襲! 丘陵地を抜けたところで敵が待ち構えておりました!」
その報告が終わるのを待っていたかのように左右の丘の上にどっと旗が林立し、割れんばかりに金鼓を打ち鳴らして伏兵が姿を現す。驚くうちにも驟雨のごとく矢が降り注いで、味方はばたばたと仆れる。
「しまった! むしろ我が行程は完全に読まれていたか」
ムカリは瞬時に青ざめる。しかしそこは草原に冠たる猛将、たちまち気を取り直して兵を叱咤する。即座に反転してまずは伏兵の攻勢を逃れようと図ったが、そこにまた急使が至って、
「後方より敵襲! 退路はすっかり塞がれております!」
「な、何だと……」
怠りなく道を択んだつもりだったが、その実は自ら隘路に飛び込んで挟撃を招いたことになる。ムカリは己の失策を悔いたが、もはや寸刻の猶予もない。
「前だ、前に進め!! 進んで血路を開け!!」
あらんかぎりの声で叫ぶと、戦斧を掲げて馬腹を蹴る。兵衆もわっと喊声を挙げて、遅れまいと従った。というのも、この猛将に蹤いていくほかに選択の余地がなかったからではある。
しかしほどなくして進むことも退くことも難しくなった。出口を扼されて激しく攻められていたため、殺到した人馬が密集して行くところがなかったのである。動けぬ騎兵など単なる的に過ぎない。端から次々と討ちとられていく。
「何たることだ!」
これこそまさに「前門の狼、後門の虎」。大仰な異名も虚しく、今や狩りの獲物のごとく進退極まることとなった。いつになく姑息な策を弄してはみたものの、真のセチェンに通じるはずもなく、かえって命旦夕に迫る。果たしてムカリを襲ったのは何処の軍勢だったか。それは次回で。
(注1)【ジャンクイ・ハーン】ヤクマン部ハーン。公式にはトオレベ・ウルチと梁公主の子だが、実父は四頭豹ドルベン・トルゲ。インジャの南征を受けて、オルドを遷した。第一七九回①参照。




