第一八三回 ③
カー単騎独行して嚢中を探り
シン千里風馳して七星を墜とす
実のところ魏登雲は、草原の烈しい戦を目の当たりにして、すっかり気後れしていた。出陣しようとしては、あれこれ理由を付けて逡巡する。青白い顔で腕を組み、黙然として目ばかりぎょろぎょろさせる。
そうするうちに、本営より敵軍へ突入せよとの合図がある。当然目にしたはずだが、なおも無言を貫く。副将の黒蟾蜍こと卞泰岳は、居ても立ってもいられず言うには、
「将軍、相国の陣から……」
「解っておる! 機を計っているのだ!」
殊更に声を荒らげて発言を遮ったので、卞泰岳はむっとして引き下がる。もう一人の副将、矮飛燕こと拓羅木公は阿諛便佞の徒、魏登雲の顔色を窺いつつ、
「さすがは鬼頭児様、戦機を見るに敏でいらっしゃる。この拓羅木公、ご下命あらばいつでも先頭に立って敵陣に突き入りましょうぞ」
「うむ……」
それからまたしばらく、三人は戦況を観察する。いよいよ南軍の優位は明らかになり、北軍がこれを覆すことは至難の業であるように映る。その間にも四頭豹の陣からは、たびたび下山を促す合図が送られる。拓羅木公は魏登雲にちらりと目をくれて、恐る恐る言うには、
「鬼頭児様。そろそろ参りませぬと、戦が終わったあとで咎められるのでは……」
「ううむ……」
どうにも煮えきらない。卞泰岳は呆れて小さく溜息を吐くと、何気なく遠方に目を遣る。と、なぜか途端に吃驚して、
「あっ!!」
叫び声を挙げる。ただならぬ様子に余の二人も驚いて、
「どうした、黒蟾蜍」
「何だ、何だ?」
口々に問いかければ、目瞬きも忘れて、ぶるぶると震えつつ、
「あ、あ、あれをご覧なさい!」
とて、西の彼方を指す。魏登雲と拓羅木公は訝しく思いつつ、言われるままに西方を見遣る。始めは何をそんなに騒いでいるのか判らなかったが、やがて二人の目にもそれが飛び込んでくる。
「あれは……、援軍か……?」
拓羅木公が呟く。魏登雲が眦を吊り上げて、
「援軍だとして、南北どちらのものか!」
「亜喪神であろうか……」
卞泰岳が言ったが、もちろん誰も答えられない。と、きょろきょろしていた拓羅木公が今度は東の方角を指して叫んだ。
「あっ! あちらからも大軍が!」
三人の梁将はみるみる青ざめる。魯鈍な彼らも、漸く事態を悟りはじめていた。何となれば、ヴァルタラの東方には万を超える騎馬の大軍など、敵を除いてはありえなかったからである(注1)。魏登雲が、はっとして言うには、
「低地にある相国は、まだこの危機に気づいてないぞ」
拓羅木公もおおいに狼狽えて、
「いかがいたします? ざっと算えるに敵の増援は併せて数万は下りますまい。このままでは平原を囲まれて逃れる術も……」
卞泰岳が我に返って、
「退きましょう! 東北方に敵影は見えません。今ならまだ……」
みなまで聞かずに魏登雲は令を下して、
「退け! 退け! 珪州(注2)に帰るぞ!!」
先ほどまで鳴りを潜めていた梁軍は、慌ただしく撤退の準備にかかる。その様子を望見した四頭豹は、ひとつ舌打ちして、
「阿呆どもめ、やっと心を決めたか。まあよい。これでフドウの小僧の命運も尽きたわ」
四頭豹は、梁軍がついに重い腰を上げて、インジャの中軍に突撃するものと思ったのである。そこで兵を叱咤して、さらに猛攻を加える。
ところが、兵を纏めた梁軍は南には向かわず、あろうことか戦場とは逆の方角へと下っていく。四頭豹は愕然として、
「まさか離脱を!? 何と怯懦(注3)な!!」
混血児ムライが宥めて言うには、
「もとより恃みにならぬもの。なれどご懸念は無用、彼奴らがなくとも勝利は目前です。このまま殺し尽くすだけのこと」
四頭豹はふうと息を吐いて気を鎮めると言った。
「然り。夕刻までには決着するだろう」
一方、ヘレゲイの梁軍を監視していたコヤンサンも、もちろんすぐに異状に気づいた。来るかとて身構えていると、動きだした敵軍はあっという間に丘陵の向こうに消える。
追って確かめるべきかとも思ったが、これが四頭豹の奸計なら迂闊に動かぬほうがよい。どちらとも決めかねてしばらく様子を窺っていたが、何か起きるわけでもない。眉を顰めて唸っていたコヤンサンは、わっと叫ぶと、
「ええい、面倒な! 自ら見てやろう」
五百騎ばかりを従えると、猛然と丘陵を駆け上がる。よほどあわてて去ったらしく、いろいろなものが放置されたままになっている。不審に思いつつ辺りを見廻せば、遥かに遠ざかる梁軍を発見する。
「何だ、なぜ逃げる。勝っているのはお前らのほう……」
と、そのときコヤンサンもまた魏登雲らが見たものを視界に捉えた。
「あれは! そうか、奴らは我が大鵬の翼を見たのだな!」
欣喜雀躍して転がるように坂を下ると、すぐに本営に伝令を送る。
(注1)【万を超える騎馬の大軍……】光都に梁兵数万があるが、その大部は歩兵である。
(注2)【珪州】光都のこと。梁軍はこれを得ると、名を珪州城と改めた。魏登雲は現在、征虜将軍にして珪州太守。第一六五回④参照。
(注3)【怯懦】臆病で気の弱いこと。




