第一八三回 ②
カー単騎独行して嚢中を探り
シン千里風馳して七星を墜とす
アリハンたちは、敵中に消えていったカーがどうなったか、そわそわしながら待つほかない。と、ほどなく敵の戦列がどっと乱れる。動揺などといった生易しいものではない。もはや恐惶と呼ぶべき大混乱、わあわあと喚きながら右往左往する。
いったい何ごとが起きたのかと瞠目していると、卒かに敵陣がふたつに分かれる。その間から悠然と馬を進めてきたのは、ほかならぬカーであった。
先ほどまで騒いでいた敵兵はたちまち固唾を呑んで、その歩むさまをじっと窺う。僅かでも音を立てれば即時に斬られるのではと怯えたものか、身動ぎもせず、ひたすら息を潜めている。
声が出ないのはアリハンの将兵もまた同じ。こちらは事態が呑み込めずに惑っていた。静寂の中、カー独りが余裕綽々、のんびりと歩を進める。そのまま敵陣を抜けて帰ってくると、
「やあ、何とかなりましたぞ」
とて、ぞんざいに地に抛り投げたものを見れば、一個の首級。ほかでもない急通貫イヒトバンのそれであった。
一瞬虚を衝かれたのち、どっと歓声が巻き起こる。カーが去って戻るまで、半刻も経っていない。まるで嚢のうちからものを取り出すように、易々と敵将を屠った鮮やかさに賛嘆の声は已まず、士気は俄然昂揚する。
この機を逃すアリハンではない。ただちに突撃の命令を下す。将兵はわっと喊声を挙げて剣を操り、槍を掲げて馬腹を蹴る。瀑布のごとき勢いに、主将を失った有象無象がどうして抗しえよう。瞬く間に崩れて背を向ける。先ほどまで互角の争闘を繰り広げていた兵とは思えぬ脆弱ぶり。
数百歩も追い散らしたところで、アリハンはさっと兵を返した。何より肝要なのはインジャを衛ること、よって中軍との間に隙ができるのを恐れたのである。この進退もまた諸将の絶賛を得る。
一方、イヒトバン援護のために進出していたドロアン・トイとゴルバン・アンクも、早々に不利を悟って兵を下げる。潰走する敗兵の波に巻き込まれなかったところを見ると、やはり凡将ではない。
そこでカーとシャイカは本営に帰参して復命する。インジャとアネクはおおいに喜んでこれを激賞したので、カーもまた満悦の体。アネクが言うには、
「ファルタバンと草原の言葉がともに解るものは稀少だ。しばらく碧晴竜皇の下でこれを輔けてやってほしい。一丈姐カノンという女丈夫があるから、よく力を併せよ」
「承知。万事、ハトンの仰せのままに」
「お前を恃みにしているぞ」
この言葉にカーはテンゲリにも昇る心地で嬉々として前線に戻ったが、くどくどしい話は抜きにする。
かくしてインジャを狙った東西からの急襲はともに退けられた。しかし危地を脱したわけではない。あくまで攻勢の主体は、東南にある四頭豹ドルベン・トルゲと、西南にある三色道人ゴルバン・ヂスンの大軍だったからである。このころには両軍とも再び態勢を整えて、花貌豹サチや超世傑ムジカらを圧迫しはじめていた。
戦いつつじりじりと後退して、北軍の展開する領域は徐々に縮小する。殊にサチが率いる第六翼の損耗は激しく、また碧水将軍オラルが預かる一万騎も今や半減して、並のものであれば、とうに潰乱に及んでいるところ。
遊軍として奔走する神風将軍アステルノの軽騎も、困憊の色は覆うべくもなく、漸く足が鈍る。これではあらゆる敵人を震撼させてきた猛威は望めない。
本営には頻々と伝令が至って、各処の苦戦を告げる。しかし手許に余剰の兵力があろうはずもなく、ただ聞いて送り返すばかり。インジャは獬豸軍師サノウに尋ねて言うには、
「軍師の見解や如何?」
「守禦の陣形を保ちうるのは、長くてあと二刻……。四頭豹にさらなる奸計があれば、一刻ともたないかもしれません」
しかしその表情は変わらず、焦る様子もない。インジャはやや力を得て、
「それでも勝てるのだな」
「はい」
短く答える。そこに天仙母キノフが進み出て言うには、
「軍師は大鵬の翼を待っているのです。ハーンも信頼ある僚友の才幹を信じて、どうか心安らかにあらせられますよう」
その顔もまた毅然としている。ちらと傍らのアネクを見れば、やはり常のとおり雄心に満ち溢れている。インジャははっとしてみなに詫びると、
「もちろん私は、神箭将や麒麟児を疑ったことはない」
以後、戦況はますます厳しくなったが、いかなる危機を前にしても、インジャは泰然自若として決して動じなかった。
包囲の輪はいよいよ狭まり、誰もが眼前の敵を押し返すことにのみ汲々とする。ここで別働の一軍に突入されたら防ぎようがない。が、一人として屈するものはなく、気力を絞って応戦する。
かえって四頭豹のほうが、もうひと押しというところまで優勢に戦を進めながら、焦燥に駆られていた。とうに崩れて然るべき北軍が、なぜか抗い続けていることもさることながら、それにもまして彼を苛立たせたのは、
「鬼頭児め、何をしている。先より突入の合図を送っているのに、一向に動かぬではないか。もとより恃みにせぬつもりだったが、急通貫も吸血姫も退けられたからには、奴を動かすほかないのだぞ。今、後背よりインジャを襲えば容易に大功を得られるというのに、戦前の壮語は何だったのか。鬼頭児の名は虚名か!?」
すなわち開戦当初からヘレゲイ丘陵に布陣する梁兵五千である。麓で呑天虎コヤンサンが睨みを利かせているとはいえ、眼下の激戦をよそにいまだ一歩も動いていない。その主将たる鬼頭児こと魏登雲は、山上からじっと戦場を見下ろしていた。




