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草原演義  作者: 秋田大介
巻一三
730/785

第一八三回 ②

カー単騎独行して嚢中を探り

シン千里風馳(ふうち)して七星を()とす

 アリハンたちは、敵中に消えていったカーがどうなったか、そわそわしながら待つほかない。と、ほどなく(ブルガ)戦列(ヂェルゲ)がどっと乱れる。動揺などといった生易しいものではない。もはや恐惶と呼ぶべき大混乱、わあわあと(わめ)きながら右往左往する。


 いったい何ごとが起きたのかと瞠目していると、(にわ)かに敵陣がふたつに分かれる。その間から悠然と(アクタ)を進めてきたのは、ほかならぬカーであった。


 先ほどまで騒いでいた敵兵はたちまち固唾(かたず)を呑んで、その歩むさまをじっと窺う。僅かでも音を立てれば即時に斬られるのではと怯えたものか、身動(みじろ)ぎもせず、ひたすら(アミ)を潜めている。


 (ダウン)が出ないのはアリハンの将兵もまた同じ(アディル)。こちらは事態が呑み込めずに惑っていた。静寂(ヌタ)の中、カー独りが余裕綽々、のんびりと歩を進める。そのまま敵陣を抜けて帰ってくると、


「やあ、何とかなりましたぞ」


 とて、ぞんざいに(コセル)(ほう)り投げたものを見れば、一個の首級。ほかでもない急通貫イヒトバンのそれであった。


 一瞬虚を衝かれたのち、どっと歓声が巻き起こる。カーが去って戻るまで、半刻も経っていない。まるで(ふくろ)のうちからものを取り出すように、易々と敵将を(ほふ)った鮮やかさに賛嘆の声は()まず、士気は俄然昂揚する。


 この(チャク)を逃すアリハンではない。ただちに突撃の命令(カラ)を下す。将兵はわっと喊声を挙げて(ウルドゥ)()り、(ヂダ)を掲げて馬腹を蹴る。瀑布のごとき勢いに、主将を失った有象(エレムデク)無象(・ヂェムデク)がどうして抗しえよう。瞬く間(トゥルバス)に崩れて(ノロウ)を向ける。先ほどまで互角の(カドクル)(ドゥアン)を繰り広げていた兵とは思えぬ脆弱ぶり。


 数百歩も追い散らしたところで、アリハンはさっと兵を返した。何より肝要なのはインジャを衛ること、よって中軍(イェケ・ゴル)との間に隙ができるのを恐れたのである。この進退もまた諸将の絶賛を得る。


 一方、イヒトバン援護のために進出していたドロアン・トイとゴルバン・アンクも、早々に不利を悟って兵を下げる。潰走する敗兵の波に巻き込まれなかったところを見ると、やはり凡将ではない。


 そこでカーとシャイカは本営(ゴル)に帰参して復命する。インジャとアネクはおおいに喜んでこれを激賞したので、カーもまた満悦の(てい)。アネクが言うには、


「ファルタバンと草原(ミノウル)言葉(ウゲ)がともに解るものは稀少だ。しばらく碧晴竜皇の下でこれを輔けてやってほしい。一丈姐(オルトゥ・オキン)カノンという女丈夫があるから、よく(クチ)を併せよ」


承知(ヂェー)。万事、ハトンの仰せのままに」


「お前を(たの)みにしているぞ」


 この言葉にカーはテンゲリにも昇る心地で嬉々として前線に戻ったが、くどくどしい話は抜きにする。




 かくしてインジャを狙った東西からの急襲はともに退けられた。しかし危地を脱したわけではない。あくまで攻勢の主体は、東南にある四頭豹ドルベン・トルゲと、西南にある三色道人ゴルバン・ヂスンの大軍だったからである。このころには両軍とも再び態勢を整えて、花貌豹サチや超世傑ムジカらを圧迫しはじめていた。


 戦いつつじりじりと後退して、北軍の展開する領域は徐々に縮小する。(こと)にサチが率いる第六翼の損耗は激しく、また碧水将軍(フフ・オス)オラルが預かる一万騎(トゥメン)も今や半減して、並のもの(ドゥリ・イン・クウン)であれば、とうに潰乱に及んでいるところ。


 遊軍として奔走する神風将軍(クルドゥン・アヤ)アステルノの軽騎も、困憊(ハウタル)の色は覆うべくもなく、(ようや)く足が鈍る。これではあらゆる敵人(ダイスンクン)を震撼させてきた猛威は望めない。


 本営には頻々と伝令が至って、各処の苦戦を告げる。しかし手許(てもと)に余剰の兵力があろうはずもなく、ただ聞いて送り返すばかり。インジャは獬豸(かいち)軍師サノウに尋ねて言うには、


「軍師の見解や如何?」


守禦(しゅぎょ)陣形(バイダル)を保ちうるのは、長くてあと二刻……。四頭豹にさらなる奸計があれば、一刻ともたないかもしれません」


 しかしその表情は変わらず、焦る様子もない。インジャはやや力を得て、


「それでも勝てるのだな」


はい(ヂェー)


 短く答える。そこに天仙母キノフが進み出て言うには、


「軍師は大鵬(ハンガルディ)の翼を待っているのです。ハーンも信頼(イトゥゲルテン)ある僚友(ネケル)才幹(アルガ)を信じて、どうか心安らかに(オルグ)あらせられますよう」


 その(ヌル)もまた毅然としている。ちらと傍ら(デルゲ)のアネクを見れば、やはり常のとおり雄心(ヂルケ)に満ち溢れている。インジャははっとしてみなに詫びると、


「もちろん私は、神箭将(メルゲン)や麒麟児を疑ったことはない」


 以後、戦況はますます厳しくなったが、いかなる危機(アヨール)を前にしても、インジャは泰然自若として決して動じなかった。


 包囲(ボソヂュ)(ドゥグイー)はいよいよ(せば)まり、誰もが眼前の敵を押し返すことにのみ汲々とする。ここで別働の一軍に突入されたら防ぎようがない。が、一人として屈するものはなく、気力を絞って応戦する。


 かえって四頭豹のほうが、もうひと押しというところまで優勢に(ソオル)を進めながら、焦燥に駆られていた。とうに崩れて然るべき北軍が、なぜか抗い続けていることもさることながら、それにもまして彼を苛立たせたのは、


「鬼頭児め、何をしている。先より突入の合図を送っているのに、一向に動かぬではないか。もとより(たの)みにせぬつもりだったが、急通貫も吸血姫も退けられたからには、奴を動かすほかないのだぞ。今、後背よりインジャを襲えば容易(アマルハン)に大功を得られるというのに、戦前の壮語は何だったのか。鬼頭児の名は虚名か!?」


 すなわち開戦当初からヘレゲイ丘陵に布陣する梁兵五千である。(ふもと)で呑天虎コヤンサンが睨みを()かせているとはいえ、眼下の激戦をよそにいまだ一歩も動いていない。その主将たる鬼頭児こと魏登雲は、山上からじっと戦場を見下ろしていた。

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