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草原演義  作者: 秋田大介
巻一三
726/785

第一八二回 ②

ハーミラ義君の後背に出でて(にわ)かに突入し

カー鉄鞭の艶美に(おどろ)いて(ただ)ちに下馬す

 アネクは席を立つと、揖拝(ゆうはい)して、


「もはや逡巡している暇はありません。獰悪(どうあく)なものどもが我が軍を襲っています。ハーンのご厚情(エルゲン・セトゲル)嬉しく(バヤルタイ)思いますが、ここは私が参らねばなりますまい」


「ううむ。しかしハトンにとっては久しぶりの戦場(注1)。昔日(エルテ・ウドゥル)と同じようにいくとは限るまい」


 すると艶然と微笑んで言うには、


「私を誰だと思っているのです。ご心配は無用です」


 そうするうちにも続々と早馬(グユクチ)が至って戦況を伝える。猛然と突入してきた紅百(ヂャウ)合社(ガス)の五千騎は、次々と防御の(ヘレム)を破って本営(ゴル)に迫りつつあるとのこと。セイネンとナハンコルジが懸命に支えているが、敵勢はいよいよ盛ん。また早馬が告げて言うには、


「先頭に立つ敵将の驍勇たるや、並のもの(ドゥリ・イン・クウン)とも思えず、味方(イル)接近(カルク)することすらできません。ゆらりと(ウルドゥ)が走ったかと思えば、次の瞬間には(むくろ)と化してしまいます」


 これを聞いたミアルンが、


「ハーン! 例の剣士に違いありません。どうか、我らを前線へ!」


 嘆願すれば、ついにインジャも断を下して、


「よし。行け(ヤブ)! 白日鹿、ハトンを(たの)んだぞ」


承知(ヂェー)!」


 またアネクの(ムル)(ガル)を置いて、


「決して己を過信してはならぬ。今や貴女は国家(ウルス)(エケ)なのだから」


はい(ヂェー)(エレグ)に銘じましょう」


 さらに黒曜姫シャイカに命じて、


「ともに行ってハトンを護れ」


承知(ヂェー)


 かくしてアネク、シャイカ、ミアルンの三人の佳人は、手に手に得物を()って前線に繰りだす。セイネンと合流(べルチル)すると、これを本営に返して指揮を交代する。アネクは馬上に(チェエヂ)を反らして兵衆の前に進み出ると、


「この鉄鞭(テムル・タショウル)のアネクが来たからには、もう心配は要らぬ! 我に続けぇ!」


 びゅんと鉄鞭をひと振り、馬腹を蹴る。兵衆はその姿(カラア)を仰いだだけでたちまち雄心(ヂルケ)を復し、喊声を挙げてあとに続く。ミアルンとシャイカは、アネクの左右にぴたりと附いて並走する。


 やや押されていたジョルチ軍が俄かに活気づいたのを看て、紅百合社の諸将は何が起きたかと瞠目する。その原因を最初に知ったのは、ハーミラの副将とも言うべきジャライル。(ヂダ)を掲げて暴れているところにアネクが現れて、


「この鉄鞭のアネクが相手だ! さあ、かかっておいで!」


 無論、色目人たるジャライルに言葉(ウゲ)は通じなかったが、戦場で遭った敵将が言うことなど東西を問わぬもの。挑戦したことは十分に伝わって、怒り(アウルラアス)心頭に発すると言うには、


「何だ、(ブスクイ)! お前の出る幕ではないわ!」


 これもまた表情と語調で大意は伝わったものだから、アネクもまた激怒(デクデグセン)して、


「色目人め、私を知らないと見える。鉄鞭の餌食にしてくれよう!」


 ぐんと足を速めて挑みかかる。その手綱(デロア)(さば)きを目にしたジャライルは、(ようや)く眼前の女がただものではないと気づく。そのときにはすでに指呼の間、あわてて得物を構える。


「ぼんやりしてるんじゃないよ!!」


 鋭い(ダウン)とともに鉄鞭が空を裂いて迫る。


「わっ! わっ!」


 何とか一撃を撥ね返したが、鞍上に平衡を損ない、構えも崩れる。


 それを見逃すアネクではない。十余年の空白は瞬時(トゥルバス)に埋まり、すっかり往時の猛将(バアトル)の姿が甦る。


冥府(バルドゥ)()け!」


 鉄鞭一閃、胴を薙ぎ払う。あまりの威力に(ヤス)は砕け、臓腑は破れる。ジャライルは、ぐぅと(うめ)くと白目を()いて落馬した。そこへシャイカがするすると近づいて鉄針(テムル・ヂュウ)を放てば、(ホオライ)を貫いて(アミン)を奪う。


 あっと言う間に将を討たれた兵衆は、おおいに動揺する。逆にジョルチ軍は勇を得て一斉に攻めかかれば、ひと息に百歩ほども押し戻す。アネクらの武威はいよいよ目覚ましく、紅百合社の襲撃は今や完全(ブドゥン)(チャク)を逸する。


 進撃を(はば)まれたばかりか、どっと押し返されたハーミラは苛立ちを隠せずに、


「いったいどうした!?」


「一人の女将軍が現れるや、ジャライル様を一撃に葬り去り……」


「ジャライルを? 女が!? それはまことか!」


「はっ……」


 それを聞いた黒智嚢クィアームは、眉間に皺を寄せて、


「もはや奇襲は成らず、勝ちを収める術はありません。撤退のご命令を」


「しかたないね。四頭豹には悪いが、退こう。だがただでは帰らないよ。殺人剣に伝えて、その女将軍を討たしめよ」


 クィアームは首を傾げて、


「あのもの、命に従いますでしょうか」


「あいつは一度しくじっている(注2)んだ。従わざるをえまいよ」


 言い捨てるや、迷わず退却を命じる。色目人たちはそれが合図なのか、ぴいいと指笛を鳴らしながら次々と馬首を(めぐ)らして離脱(アンギダ)を図る。


 アネクは逃すまじとて、ただちに追撃を開始する。ミアルン、シャイカ、ナハンコルジがあとに続く。

(注1)【久しぶりの戦場】アネクは実はハトンに冊立されてから一度も前線に立っていない。最後に戦場に出たのは十四年も前、ジョルチ部を統一に導いたタムヤ攻囲戦である。第五 六回②参照。


(注2)【一度しくじっている】カーはチルゲイを討つよう命じられたが、ミアルンに遮られたため退き、ハーミラに叱責された。第一七七回①参照。

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