第一八二回 ②
ハーミラ義君の後背に出でて卒かに突入し
カー鉄鞭の艶美に愕いて径ちに下馬す
アネクは席を立つと、揖拝して、
「もはや逡巡している暇はありません。獰悪なものどもが我が軍を襲っています。ハーンのご厚情は嬉しく思いますが、ここは私が参らねばなりますまい」
「ううむ。しかしハトンにとっては久しぶりの戦場(注1)。昔日と同じようにいくとは限るまい」
すると艶然と微笑んで言うには、
「私を誰だと思っているのです。ご心配は無用です」
そうするうちにも続々と早馬が至って戦況を伝える。猛然と突入してきた紅百合社の五千騎は、次々と防御の壁を破って本営に迫りつつあるとのこと。セイネンとナハンコルジが懸命に支えているが、敵勢はいよいよ盛ん。また早馬が告げて言うには、
「先頭に立つ敵将の驍勇たるや、並のものとも思えず、味方は接近することすらできません。ゆらりと剣が走ったかと思えば、次の瞬間には骸と化してしまいます」
これを聞いたミアルンが、
「ハーン! 例の剣士に違いありません。どうか、我らを前線へ!」
嘆願すれば、ついにインジャも断を下して、
「よし。行け! 白日鹿、ハトンを嘱んだぞ」
「承知!」
またアネクの肩に手を置いて、
「決して己を過信してはならぬ。今や貴女は国家の母なのだから」
「はい、肝に銘じましょう」
さらに黒曜姫シャイカに命じて、
「ともに行ってハトンを護れ」
「承知」
かくしてアネク、シャイカ、ミアルンの三人の佳人は、手に手に得物を執って前線に繰りだす。セイネンと合流すると、これを本営に返して指揮を交代する。アネクは馬上に胸を反らして兵衆の前に進み出ると、
「この鉄鞭のアネクが来たからには、もう心配は要らぬ! 我に続けぇ!」
びゅんと鉄鞭をひと振り、馬腹を蹴る。兵衆はその姿を仰いだだけでたちまち雄心を復し、喊声を挙げてあとに続く。ミアルンとシャイカは、アネクの左右にぴたりと附いて並走する。
やや押されていたジョルチ軍が俄かに活気づいたのを看て、紅百合社の諸将は何が起きたかと瞠目する。その原因を最初に知ったのは、ハーミラの副将とも言うべきジャライル。槍を掲げて暴れているところにアネクが現れて、
「この鉄鞭のアネクが相手だ! さあ、かかっておいで!」
無論、色目人たるジャライルに言葉は通じなかったが、戦場で遭った敵将が言うことなど東西を問わぬもの。挑戦したことは十分に伝わって、怒り心頭に発すると言うには、
「何だ、女! お前の出る幕ではないわ!」
これもまた表情と語調で大意は伝わったものだから、アネクもまた激怒して、
「色目人め、私を知らないと見える。鉄鞭の餌食にしてくれよう!」
ぐんと足を速めて挑みかかる。その手綱捌きを目にしたジャライルは、漸く眼前の女がただものではないと気づく。そのときにはすでに指呼の間、あわてて得物を構える。
「ぼんやりしてるんじゃないよ!!」
鋭い声とともに鉄鞭が空を裂いて迫る。
「わっ! わっ!」
何とか一撃を撥ね返したが、鞍上に平衡を損ない、構えも崩れる。
それを見逃すアネクではない。十余年の空白は瞬時に埋まり、すっかり往時の猛将の姿が甦る。
「冥府で哭け!」
鉄鞭一閃、胴を薙ぎ払う。あまりの威力に骨は砕け、臓腑は破れる。ジャライルは、ぐぅと呻くと白目を剥いて落馬した。そこへシャイカがするすると近づいて鉄針を放てば、喉を貫いて命を奪う。
あっと言う間に将を討たれた兵衆は、おおいに動揺する。逆にジョルチ軍は勇を得て一斉に攻めかかれば、ひと息に百歩ほども押し戻す。アネクらの武威はいよいよ目覚ましく、紅百合社の襲撃は今や完全に機を逸する。
進撃を阻まれたばかりか、どっと押し返されたハーミラは苛立ちを隠せずに、
「いったいどうした!?」
「一人の女将軍が現れるや、ジャライル様を一撃に葬り去り……」
「ジャライルを? 女が!? それはまことか!」
「はっ……」
それを聞いた黒智嚢クィアームは、眉間に皺を寄せて、
「もはや奇襲は成らず、勝ちを収める術はありません。撤退のご命令を」
「しかたないね。四頭豹には悪いが、退こう。だがただでは帰らないよ。殺人剣に伝えて、その女将軍を討たしめよ」
クィアームは首を傾げて、
「あのもの、命に従いますでしょうか」
「あいつは一度しくじっている(注2)んだ。従わざるをえまいよ」
言い捨てるや、迷わず退却を命じる。色目人たちはそれが合図なのか、ぴいいと指笛を鳴らしながら次々と馬首を廻らして離脱を図る。
アネクは逃すまじとて、ただちに追撃を開始する。ミアルン、シャイカ、ナハンコルジがあとに続く。
(注1)【久しぶりの戦場】アネクは実はハトンに冊立されてから一度も前線に立っていない。最後に戦場に出たのは十四年も前、ジョルチ部を統一に導いたタムヤ攻囲戦である。第五 六回②参照。
(注2)【一度しくじっている】カーはチルゲイを討つよう命じられたが、ミアルンに遮られたため退き、ハーミラに叱責された。第一七七回①参照。




