第一八一回 ④
アステルノ嚆矢を放って縦横に馳走し
アリハン鋭鋒を挫いて泰然と聳立す
やや北に後退したと見えたムジカには、またムジカの考えがあった。
「善し! 四頭豹の本隊がついに丘陵を棄てて平原に出てきたぞ。我らを追い込んだと思っているのだろうが、今や軍師の大網に罹ったのは彼奴のほうだ」
傍らで指揮を輔ける妻のタゴサを顧みて、
「もう少しの辛抱だ。堪えているうちに必ず大鵬の両翼が至る!」
たしかにここまではサノウの描いた大略のとおり。が、実際に自軍を大きく上回る敵軍に囲まれて戦い続けるのはなかなかの苦難。奇襲を受けてよりこの方、二刻ほども経っている、昼を過ぎて陽は僅かに西に遷る。
黄金の僚友たちは強大な敵を前に、互いに励ましあい、補いあってひたすら戦う。兵書に謂う、「これを亡地に投じて然るのちに存し、これを死地に陥れて然るのちに生く」とは、まさにこのこと。誰もが勝利を信じて、死力を尽くす。
一方の四頭豹も優勢に戦を進めていながら、もどかしい思いを禁じえない。完全に包囲した上で奇襲したにもかかわらず、容易に崩れると看ていた北軍が崩れない。
戦前の目算ではすでにこれを撃破して、インジャの首級を挙げているはずであった。付き従う混血児ムライに思わず言うには、
「超世傑と碧水将軍は抜きがたい。突破するべきは西方だ。三色道人ともあろうものが、寡兵を相手に何をもたついているのだ」
ムライは答えて、
「敵の女将軍(※花貌豹のこと)は、寡兵を巧みに用いることに定評があります。しかしいつまでも戦えるわけではありません。河東公(※三色道人のこと)は堅実無比の名将、いずれ必ず敵を駆逐するに相違ありません」
「解っている。……解ってはいるのだがな」
「天兵でも至らぬかぎり、我が軍の優位は動きません。またいざというときのために、我々は『毒矢』を秘匿しているではありませんか」
とて、にやりと笑う。四頭豹もふうと息を吐いて、
「そうだな、何ごとも備えておくものだ。かの『毒矢』をもってフドウの小僧を葬らん」
二人の言う毒矢が何を指すかはすぐに判ることゆえ、今は述べない。
その西方にて闘い合うサチを援護しているアステルノには、ひとつの懸念があった。
「あの三色道人の用兵は手堅い。だがその麾下には厄介な将が幾人もある」
猛然とインジャの中軍に突貫したイヒトバンもその一人だが、アステルノが憂慮したのはまた別のもの。伝令の将校を招くと告げて言うには、
「花貌豹に伝えよ。『飛天道君の奇兵に気をつけろ』と」
そもそも戦いにおいては、「正をもって合し、奇をもって勝つ」と謂う。三色道人が用いるのはあくまで「正兵」だが、勝敗を決するべく繰りだす「奇兵」の任を担うものこそ急通貫イヒトバンであり、飛天道君と称されるトウトウであった。
伝令を受けたサチは、ひと言、
「承知した」
そう述べたきり。傍らの神道子ナユテが口を開いて、
「奇兵と云うが、いったいどのような……」
するとサチは、
「こうした平原で打てる手など限られている。案ずるな。蒼鷹娘と娃白貂には、備えるよう伝えてある」
ナユテは瞠目して、己の妻の将才に今さらながら感嘆する。
そのトウトウは、余の友軍とともに正面からサチの軍勢を圧迫していたが、卒かに崩れて、じりじりと後退していく。北軍第六翼の最前列には蒼鷹娘ササカがあって奮戦していたが、それを見て、
「敵の一角が崩れた! ここを破って三色道人かチンラウトの後背に廻り込めば……」
勇躍して突撃の命を下さんと身構えたが、そこでふと先に奇兵への備えを命じられたことに想到すると、大きく息を吐いて、
「殆うい、殆うい。きっとあれは我らを誘う計略の類。考えてみれば、今いきなり崩れるなんてありえない」
ササカはかえって兵衆の突出を戒め、この間隙を利して堅陣を組み直す。その様子を見たトウトウは、舌打ちして、
「欺かれなかったか。まあよい。次の計だ」
そのまま退いて、一度乱戦の輪を脱する。そうして西側から三色道人の本隊の後背を通って、ぐるりと北方に転じる。
「今や敵人の眼は南西しか見ていまい。西北から錐のごとく突入して敵を寸断してくれよう」
首尾よく本隊の北面に至って、戦列を整える。じっと戦況を窺って、やがて言うには、
「おお。女将軍の兵衆と、東城の兵衆(※カトメイ軍)の間に看過できぬ隙があるぞ。そこに楔を打てば、みるみる亀裂ができよう」
喜び勇んで突撃に転じる。わっと喊声を挙げて躍り込んだところ、それを待っていたかのごとく一軍が立ち塞がる。先頭に立つ色白の小柄な将が叫んで言うには、
「おお、すべて大将軍の読みどおりだぞ! 罠に嵌まった野鼠を逃すな!」
誰あろう、これぞ娃白貂ジュチ・クミフ。剣を掲げて真っ向から斬り込む。不意を襲ったつもりが、虚を衝かれたのはむしろ飛天道君。狼狽えながらもしばらく戦っていたが、早々に退却を決める。
戦局を変えようと放った策をふたつとも封じられたトウトウは、やむなく退いて再び南西に兵を返す。
まさに得がたきは名将の差配、狡智の魔手も乗ずるところなしといったところ。このことから小は義君の幕下に新たに異能の士を加え、大は苦境の渦中についに大鵬の翼を得ることとなる。果たしてヴァルタラ平原の決戦はいかなる顛末を辿るか。それは次回で。




