第一 八回 ④
ナオル義兄に天無二日の理を諭し
ヒスワ大人に遠交近攻の計を説く
サルカキタンは一瞬目を輝かせた。が、すぐにそれは色を失った。
「それほどの兵を養いながら、なぜ一度も撃って出ようとしなかったのだ」
「それはやはり城に縛られたのでございます。城に居れば防備は易いもの。さらによその部族とことを構えるよりは交易していたほうが楽で、かつ利がありますからな」
ヒスワの言葉に新たな疑問が湧く。
「それではなぜ軍を動かす気になった」
「ごもっとも。それは草原の乱れが頂点に達したからです。特にジョルチ部の抗争が激しく、神都からタムヤまでの交易路を安寧に保つことが困難になってきました。ジュレンは交易で生計を立てておりますから、交易の安全こそ肝要。そのためにはいたずらに専守を気取っているわけにはいきません。乱が鎮まるのを待つより、自ら乱を鎮める方策を採ろうというわけです」
サルカキタンには難しい理屈だったが、商人には商人の理があるのだろうと察して得心した。だが不安は去らず、
「しかし戦に慣れていないのではないか?」
「だからこそ勇将と名高い大人と結ぶのです。さらに我々には策がございます」
「ほう、それは」
「大人は今、東にベルダイ左派、西にフドウ、ジョンシ、南にマシゲルと、三方を囲まれた形勢です。これは分が悪い」
頷いたのを見て、ヒスワは微笑むと、
「そこで大人、遠交近攻という策をご存知ですか」
もちろん知っているはずもない。
「遠くと交わり近くを攻める、つまりここでは包囲の外にさらに盟友の輪を作って逆に敵を囲んでしまうのです。例えば我がジュレンと大人が結べば、ベルダイ左派を挟撃する形になります。同じようにフドウもマシゲルも大きな輪の中に封じ込めるのです。そして一気に呼応して軍を興せば、敵は互いに助け合うこともできず自然に滅びるでしょう」
サルカキタンは思わず、おおっと声を漏らす。
「お主は知恵者じゃのう。目から鱗が落ちる心地じゃ」
「しかしながらまだその包囲の輪が完成したわけではありません。まず西のフドウ、ジョンシですが、そのさらに遠方の部族を味方にしなければなりません」
「それはどこだ」
「ミクケル・カン率いるウリャンハタ部です。その兵力は強大で、メンドゥ河を渡ればそこは彼らの版図です。南はシータ海までを収め、兵力は数万を数えます」
「味方になるのか?」
「そこでございます。我々が査べたところ、ウリャンハタの客人におもしろい男がおります」
「ええい、誰じゃ。焦らすな」
「ジョンシ氏族長ナオルの兄、ウルゲンです。彼は以前にナオルとの争いに敗れて(注1)、ミクケル・カンを恃んでいます。今や多少の信頼を得てこれに仕えているとか。ウルゲンはきっとナオルへの報復を忘れていないでしょうから、乗ってくること請け合いです」
「おもしろい。ではマシゲルは?」
「それは大人のほうがよくご存知です。トオレベ・ウルチ・ハーンがいるではありませんか」
すると眉間に皺を寄せて、
「トオレベ・ウルチは黒い心の主だ」
「しかと盟を約する必要はありません。牽制の役に立てば十分。マシゲルにはほかにも打つ手はあります。あの辺りはもともと野盗や小部族の多い地域、彼らを焚きつければかなり手を焼くに違いありません」
「ははあ、その手があったか」
「これでほぼ包囲の網は完成です。もうひとつ難関を越えれば、さらにこの策は完璧になります」
「それは?」
「メンドゥの妖人ことタロト部のジェチェン・ハーンです。知ってのとおりタロトはフドウ、ジョンシと懇意にしています。この連環を断たねば西の包囲は破れるでしょう」
「なるほど、策はあるのか」
「実はもっとも手強いのがタロトの始末なのですが、これはただひとつの策でどうこうできるものではありません。まずはトオレベ・ウルチによる牽制、次に不平氏族の扇動、そして最後にウリャンハタを動かすのです。またそれらに先立って謀略を駆使しなければいけません」
「というと?」
「流言蜚語を撒き散らして混乱させるのです。ジェチェンもこの十年ですっかり老いて、末子のマタージが多くの職務を代行しています。このマタージはまだ年若く恐れるに足りません。虚偽をもって惑わせてしまうのです。その上でヤクマンやウリャンハタが牽制すれば、とてもフドウを助けるどころではなくなるでしょう」
サルカキタンは小躍りして喜ぶ。
「おもしろい」
「それだけではありません。これらの策をもってなお功を奏さなかったときはやむをえません」
「おう、そのときは?」
ヒスワはその双眸に暗い光を溢れさせながら、口には微笑を浮かべて言った。
「ジェチェンに刺客を送ります」
さすがの野人もはっと息を呑む。が、やがて沸々と笑いが込み上げてきて、ついには声に出して高らかに笑った。ヒスワも応じて笑い出す。
さて、この奸人の発案がもとになり、草原は上を下への大騒動、さしもの英傑好漢もおおいに肝を冷やすということになる。
まさしく戦の勝敗は兵家の常、小人相集いて奸策を諮り、おかげで敗者も息を吹き返すといったところ。ヒスワの策はどういう顛末を辿るか。それは次回で。
(注1)【ナオルとの争いに敗れて】第 五 回①参照。