第一七九回 ①
ドルベン元帥を嘲罵して奸謀に任じ
サノウ籌画を披瀝して大鵬に擬う
さて、ついに義君インジャは再度の南征の軍を発した。約会した黄金の僚友を数えれば六十三人、兵は十五万という未曾有の大軍。勇将、知将は綺羅星のごとく、この一戦にて憎き四頭豹を葬らんと衝天の意気をもって臨む。
対する四頭豹ドルベン・トルゲは、やや対応が遅れたように見えた。東原にあった三色道人ゴルバン・ヂスンは命を待たずに還ってきたが、西原の亜喪神ムカリは僅かに逡巡したため、いまだ渡河できずにいた。
その西原から最初に至ったのは意外な人物。すなわちイシを掠めた「紅百合社」の首魁、吸血姫ハーミラとその一党である。火砲や歩兵は城塞の守禦に残して、五千騎を率いての参陣。四頭豹はおおいに喜ぶ。
また光都を占めていた梁の鬼頭児こと魏登雲も、俄かに戦意勃々と沸き起こって、副将の江奇成や文官たちの制止も聞かず、五千騎を率いて長躯してきた。
四頭豹は表向き謝意を述べたが、実はまるで恃みにしていない。中華の騎兵が剽悍な草原の騎兵と互角に戦えるわけがないと思ったからである。
その梁兵を加えても、四頭豹の手許にあるのは約八万騎。敵の半数を僅かに超えるばかり。ともかくオルドの遷移を図る。梁公主とジャンクイ・ハーンは、寡兵を附けて南へ送る。
長城の傍まで後退して、ダルシェから奪ったばかりのダナ・ガヂャルに退避させた。本来なら侍衛軍を率いるチンラウトが護衛するべきだが、今は侍衛の一万騎を割く余裕がない。よってオルドに随った権臣は、財政を司る文官スーホ独り。
これを送りだすと、大量の斥候を放って南征軍の動向を探る。またムカリに早馬を送って渡河を促す。諸将を集めて軍議を開けば、みな青い顔をして黙りこむ。独り四頭豹のみは嘯いて、
「己が優位にあると思うものは、必ず隙を見せる。どんなに慢心するなと己に言い聞かせても、どうしても弛むものだ」
答えるものはない。やむなく再び口を開いて言うには、
「隙がなければ作ればよい。あんな大軍を何の混乱もなく統率できるものはない」
インジャの南征軍はアラクチワド・トグムを発って、次第に南下していた。何と云っても十五万の大軍。どんなに急いでも軽騎とは異なる。布に浸した水が染みるようにじわじわと、しかし確実に版図を浸蝕する。
頻々と至る早馬が告げる敵情にますます沈滞する軍議の席上、既知の顔を見出すことができる。スブデイ・ベクである。彼は神都を逃れたのち、ほかに行くところもなく四頭豹に投じていた。
前身(注1)を慮って丁重に迎えられてはいたものの、その無能は早くも周知の事実。役務どころか、発言すら求められない。
もとよりスブデイに策などあろうはずもない。ただ四頭豹が何か言うたびに頷き、早馬が至るたびに眉を顰めて見せる。
ところが日を重ねるうちに、この小人にも漸く思うところが生じた。省みれば、天下に恃むべきものもなく、ここを追われたら途端に窮する。よって何としてもひとつ功を立てねばと決心する。
こうした無能の一念発起は概して悪しき顛末を辿るものだが、当人はもちろんそうは考えない。ある日の軍議で、ついに決然と立ち上がって言うには、
「私はこちらに来てまだ何の功も立てておりません。助けていただいた恩を返すのは今を措いてありましょうや。どうか策をお授けください」
思いも寄らぬものが声を挙げたので、諸将は少なからず驚く。四頭豹もまた僅かに目を見開いたが、やがて薄ら笑いを浮かべて言うには、
「ほう、天下に高名な神都の大元帥殿が、自らはたらいてくださるとは望外の喜び。聞くところによると貴殿は万巻の兵書に通じておられるとか。さぞや有用な策をお持ちなのではありませんか?」
スブデイはぎょっとして、あわてて言うには、
「いえ、揶揄うのはお止めください! 相国様を前にして誰が知略を誇ることなどできましょう。愚かな私でも何かご下命いただければ、身命を賭してやり遂げてご覧にいれましょうぞ」
すると居並ぶ諸将はわっと嗤う。スブデイが甚だ心外に思って目を白黒させていると、四頭豹がこれを嘲って言うには、
「失礼ながら貴殿のはたらくところなどありません。血族の危機すら顧みず保身を図るようなものに、どうして部族の安危を託せましょう。ありもしない雄心を装うのはおやめなさい。おとなしくしておくのが御身のためというものです」
みなこれを聞いて、どっと沸き立つ。口々に嘲り罵って、中には顔を指して笑うものまである。チャダなどは腹を抱えて、
「無能が出しゃばるからだ。相国様が慧眼で助かったではないか。おかげで危ない目に遭わずにすんだというものだ」
また小スイシも手を拍って、
「大元帥殿は壁の内にあって兵書の字を追っていればよろしい。戦場では兵書を繰っている暇はありませんぞ!」
一人として擁護するものもない。座は騒然として、四頭豹もにやにやしながらそれを放置している。
スブデイはあまりの屈辱に赤くなったり青くなったりしていたが、ついに満座の嘲弄に堪えかねて、潤んだ眼を隠すように伏せて退席する。それを見た諸将はますますこれを蔑んで罵倒を浴びせる。
幕舎を飛びだしたスブデイは、かっと熱くなった頬を擦りながら早足でゲルに帰らんとする。と、声をかけたものがあって言うには、
「お待ちください、大元帥殿! 相国様は貴公を恃みにしておられますぞ。実はすべて敵人を欺くための計略なのです」
スブデイは驚いて立ち止まる。
「今、何と!?」
(注1)【前身】スブデイは神都の僭帝ヒスワの従弟で、大元帥の地位にあった。




