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草原演義  作者: 秋田大介
巻一二
706/785

第一七七回 ②

チルゲイ(さか)んに兵法を引いて雄略を弁じ

カントゥカ(たちま)ち叡裁を下して天命に沿う

 インジャはたちまち(ニドゥ)を輝かせて、


「奇人殿のお考えになることは、常にみなを驚かせ、また喜ばせるもの。このたびはどんな智恵を出されるのでしょう?」


 チルゲイは再拝して言うには、


「過分の褒辞を賜り、汗顔の至りです。ハーンもご存知のとおり、我がウリャンハタはまさに危急存亡の(とき)。すべては私どもの智恵が、かの四頭豹に遠く及ばぬために生じたこと。もはや自ら立つこともかないません。畏れながら、ハーンのご厚恩に(すが)って露命を繋ぐほかないのです」


「何をおっしゃいますやら。勝敗は兵家の常、みなさんが(すぐ)れた才略(アルガ)を有していることは自明の事実。必ずや難敵を退けて平和(ヘンケ)を復することができましょう。私は西(バラウン)の大カンのために助力(トゥサ)を惜しむものではありません。ともに(ガル)を携えて、かの奸賊を討ち果たしましょうぞ」


ありがとうございます(バヤルララ)。ハーンの言葉(ウゲ)は、何にもまして我らの雄心(ヂルケ)を奮い立たせるもの。それを聞いて(セトゲル)の動かぬものはおりません」


 インジャは俄かに立ち上がって拝礼すると言うには、


「どうやら奇人殿には策があるご様子。どうか愚鈍な私にご教示ください」


 チルゲイはおおいにあわてて、


「いけません、大ハーンがそのような。私の身の置きどころがなくなってしまいます。どうかおかけになってください」


 応じてインジャが高き座(オンドゥル)に戻ったので、再び(アマン)を開いて、


「この十年(注1)というもの、草原(ミノウル)の情勢は四頭豹の意のままに推移しております。気がつけば天下は南北に二分され、遠く梁やファルタバン朝の兵の進駐すら許す有様。悔しいかな、四頭豹の周到にして大胆、かつ広遠とも言うべき策謀の数々に我らは翻弄されるばかり。ことが起こるたびに吃驚し、消耗し、応対に追われて、ひとつ片づいたと思えば次なる奸計が(あらわ)になるということを、いたずらに繰り返してきました」


「ううむ、認めたくはないが、まったくそのとおりだ」


 インジャの表情はみるみる曇る。チルゲイはその(ヌル)を正視して言った。


「そろそろ負の連環を断ち切らねばなりません。四頭豹に手綱(デロア)を預けているうちは、決して勝つことはできません。自ら(タショウル)()って、歩むべき(モル)を踏むことが必要(ヘレグテイ)です」


「実におっしゃるとおりだが、そのためには何を為すべきか……」


「私はこの半歳、城塞(バラガスン)のうちに籠もらされて、無為に日々を重ねざるをえませんでした。当初は、いかにして(ブルガ)包囲(ボソジュ)を解くか、あるいは逃れるか、また次の四頭豹の策を予見して封じることはできないか、などと考えを(めぐ)らせておりました」


 インジャは無言で頷く。と、チルゲイは俄かに(ダウン)を大にして言うには、


「しかしそれこそすべて徒労! ただただ四頭豹の奸計の(ゴルミ)の中でもがいていたに過ぎません」


「…………」


「今こそ手綱を取り戻すときです。すなわち我ら盟邦がともに立ち上がり、正々の(トグ)を掲げ、堂々の(デム)()き、自ら戦いの(ガヂャル)を選び、自ら戦いの(ウドゥル)を定めて、積年の宿敵を討つべきです。奸計に惑わされず、こちらの思うように戦う(アヤラクイ)ことが肝要です。動いて迷わず、挙げて窮せず、円石を千(じん)(アウラ)に転ずるがごとく、勢いに任じて攻めかかるべきです。兵法に謂うところの『人を致して人に致されず(注2)』とはまさにこのこと」


 インジャは黙してチルゲイの進言を熟思している風だったが、尋ねて言うには、


「奇人殿の高説はもっともですが、いかんせん敵は我らに倍する大軍を擁しております。梁兵だけでも東西併せて十万。兵法では『算多きは勝ち、算少なきは勝たず』と謂います。兵を興したとして、果たして勝算はあるのでしょうか」


 問われて答えるのはチルゲイの本領、臆することなく言うには、


「畏れながら、ハーンは虚を見て、実を見ておりません。『兵は多きを益とするにあらず』と申します」


「虚とは?」


 莞爾と笑って言うには、


「まさにハーンがおっしゃった梁兵です。思うにこれを(かぞ)える必要はありません」


 インジャは瞠目して、


「いったいどういうことですか」


「これもイシに籠もっているうちに悟ったのですが、あのとき城内には一万騎(トゥメン)の兵が居ました。しかしただ居るだけで、何のはたらきもできませんでした。よいですか? はたらきのない兵はそもそもいないも同然、どうして算える必要がありましょう」


「梁兵がそうだと?」


はい(ヂェー)! 梁兵の主力は歩卒。たとえ草原(ケエル)に繰り出しても、いたずらに彷徨するばかり。こちらが策を誤らなければ、戦いの日に戦いの地に辿り着くこともできないでしょう。ただ遠方(ホル)の城塞に籠もっているだけならば、十万が百万でも放っておけばよろしい。草原で勝利を収めれば、自ずと霧消(ブレルテレ)するはずです」


 インジャはみるみる愁眉を開いて、


「たしかにそのとおりだ」


「破るべき敵は四頭豹、戦うべき地は中原、動くべき時は(ハバル)です。こちらは東西の兵を集めて、一気呵成に南進します。もちろん三色道人と亜喪神は合流(べルチル)するでしょうが、梁兵はもとより、色目人の兵も間に合いません」


 (オロウル)を湿すと、詳説してさらに言うには、


「何となれば、イシを奪った西域(ハラ・ガヂャル)軍は歩騎が相半ばしており、恐るべき火砲があるといえども、これを中原に運ぶには幾日かかるや知れません。またファルタバン朝は侮ることのできぬ強兵(ヂオルキメス)には違いありませんが、今は西域諸蕃に退避しています。春の西原は砂塵が吹き荒れ、ただでさえ千里を越えてきた大軍が容易(アマルハン)に動ける季節ではありません。よって私は『春に中原で戦え』と申しているのです」

(注1)【この十年】このときより十年前に、四頭豹はジャンクイを擁立(西暦1211年)。翌年にはインジャの南征を撃退して、英王を弑逆(しいぎゃく)(1212年)。ダルシェを無力化(1214年)したのち、東原に天導教を興して(1215年)、東原動乱を招く(1216年)。シノンの叛乱が失敗(1217年)して、ヒスワが処刑されると、三色道人を光都(ホアルン)()って東ヤクマン部を建てさせた(1218年)。またボギノ・ジョルチのハヤスンを暗殺(1219年)、ついに亜喪神を西原に送って衛天王を破り、双城を攻略した(1220年)。その結果、四頭豹の勢力は東西に伸長して、天下は二分された。


(注2)【人を致して人に致されず】己が主導権を握って、敵に振り回されてはいけない、という意味。

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