第一 八回 ②
ナオル義兄に天無二日の理を諭し
ヒスワ大人に遠交近攻の計を説く
インジャはすべて得心したわけではなかったが、立ち上がった。
「ナオルはどうする?」
「私はこのままここに。そう、もうひとつ言わなければなりません」
「何だ」
「ゴロ・セチェンとは懇意にしておくべきです」
それを聞くと莞爾と笑って言った。
「言われるまでもなくそれが旅の目的だったではないか」
「そうでした。余計なことを言いました」
やっとナオルも笑う。インジャは宴席に戻るべくゲルを出た。いろいろと思案しながら戻ってくると、トシが早速声をかけた。
「おお、おお、ナオル殿の調子はどうだ?」
相当に酔いが回っている様子である。
「旅の疲れが出たようです。たいしたことはありますまい」
「それならよかった。もし良くならないようならキノフに診せるとよい」
「ありがとうございます」
礼を言うと、おもむろにゴロの傍に近づく。ゴロはベルダイの諸将を相手に西域の話をしている最中であった。軽妙な語り口に諸将は笑ったり驚いたりとせわしない。
話がひと区切りするのを待って声をかける。
「ゴロ殿、今日は貴殿のおかげで僚友二人の命が救われました。再度お礼を申し上げにまいりましたので、よろしければ酒を注がせてください」
ゴロは顔を上げると笑いを収めて、じっとインジャの目を覗き込んだ。僅かな沈黙のあと杯を干して言うには、
「偶然ですよ。礼には及びません」
「実はお話があります」
インジャはゴロの杯を満たしながらそう前置きして、ナオルに書を持たせて神都に遣わしてからのことを包み隠さず話した。そして、
「我々の浅慮でゴロ殿が苦境に陥ったことについては弁解の余地はありません。深くお詫びいたします。しかしハツチは単に過日の礼を言いたかっただけのこと、決して他意があったわけではありません。あまり彼を責めないよう、それだけはお願いします」
いつの間にか当のハツチもやってきて、横でうなだれている。インジャが話し終わるのを待って、さらに頭を垂れて言うには、
「インジャ様が謝ることではありません。すべてわしの書簡から起こったこと。わしは取り返しのつかぬことをしてしまった。どんな罰でも甘んじて受けよう。ただインジャ様には関わりないことだ。それだけは解ってくれ」
インジャがまたそれを制して、
「いや、過失は私にあります。迂闊なことを許した私が悪いのです。ハツチの誠心はゴロ殿もよく知るところ、私はその真情をも無にしてしまったのです」
そう言って頭を下げる。ハツチも負けじと巨躯を折り曲げる。ゴロは冷ややかともとれる目で二人を見ていたが、やがて静かに言った。
「顔を上げてください、居心地が悪い。だいたいもとはと言えば、ヒスワのような奸物を信じていた私がいけないのです。責められてしかるべきはこのゴロの盲目、知恵者などと呼ばれていい気になっていたのが恥ずかしいくらいです。私が愚かだったばかりにみなに要らぬ心配をさせてしまった。こちらこそ申し訳ない」
するとゴロは卒かに平伏して額を地に着けた。インジャもハツチもこれには意表を衝かれてあわてて助け起こす。
「何だ、悪いのは誰でもない。ヒスワとやらではないか」
三人がはっと顧みると、マルナテク・ギィが笑みを浮かべて立っている。すっと傍らに腰を下ろすと、ゴロの肩を叩いて、
「お前もたいした奸人を信じたものだなあ」
ゴロは愧じ入って答える術も知らないでいる。ギィは揶揄って、
「セチェンと呼ばれるほどの男を欺くとは、なかなかたいした奴だ」
「もうよい。私はセチェンと称されるのには懲りた」
インジャとハツチは再度謝り、ギィはしきりに慰めた。そうこうするうちに上天が定めた宿運のおかげか、すっかり意気投合してしまった。
互いに新たな知友を得たので大喜びで酒を酌み交わし、奸侫邪智の徒を罵り、憤怒はやがて草原を憂える真情の吐露となった。英傑好漢が相集えば、そうなるのは理の当然というもの。
ジュゾウ、マルケも輪に加わり、いつの間にかベルダイの華アンチャイもギィの隣に端座して耳を傾けている。
するとどこからかアネクもやってきて、しばらくどこに座ろうか思案している様子だったが、きっと眉を顰めて怒ったような顔をすると、やっとインジャの隣に、(ハツチを押しのけて)勢いよくすとんと腰を下ろした。
座の誰も彼女の不可解な行動に気づくものとてなかったが、独り飛生鼠のみ目敏くそれを見ていて内心おおいに笑った。