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草原演義  作者: 秋田大介
巻一二
698/783

第一七五回 ②

四頭豹布石十全にしてガラコ()

衛天王豪勇無双なるもサチ殿(しんがり)

 見るも無残なイトゥクの姿(カラア)に、ウリャンハタの好漢(エレ)たちは愕然とする。(マグナイ)には乾いた(ツォサン)がこびりつき、眼窩(がんか)は黒ずんで(くぼ)み、(ハツァル)(やつ)れ、袍衣(デール)は裂き破けている。さらにその言を聞いて、ますます吃驚する。


「我が軍は(にわ)かに現れた色目人の軍勢に襲われて敗れました。戦列(ヂェルゲ)を再復することができず、やむなく退却いたしました」


 ボッチギンが(ニドゥ)を円くして、思わず(ダウン)を荒らげる。


「では、援軍は来ぬということか!」


「申し訳ありません……」


 イトゥクは面を伏せ、ボッチギンはテンゲリを仰ぐ。アサンが尋ねて、


「王大母殿らは無事なのですね?」


 頷いたのを確かめて、さらに問う。


「いったいどこの兵でしょう。あなたは色目人の軍勢とおっしゃいましたが」


「百万元帥殿によると、あれはファルタバン朝の兵ではないかと。百万元帥殿は先に潤治卿殿とともにその東征の噂を聞いたそうですが、よもやすでに西原に至っているとは思いもしなかったそうで……」


「ファルタバン朝!!」


 みな異口同音に叫んだきり言葉(ウゲ)を失う。彼らもまた懸念はしていたものの、ここまで兵を進めているとは予想外だったからである。しばらく誰も(アマン)を開かなかったが、やがてアサンが我に返って、


「それで、敵軍(ブルガ)は何処へ?」


 まさかそのまま留守陣(アウルグ)へ侵攻されれば、寡兵にて(ふせ)ぐ術もない。みなもはっとしてイトゥクの答えを待つ。


「しかとは判りませぬが、(モル)を転じて南西に向かったように思われます」


 まだ弛むことはできぬが、ひとまず(オモリウド)を撫で下ろす。イトゥクを休ませると、四方に斥候(カラウルスン)早馬(グユクチ)を放って探索させる。


 数日して、方々から報告が集まる。留守陣の無事も伝えられる。先に()っていたタケチャクも帰還した。言うには、


「俺がファルタバン軍を見つけたときには、すでにボギノ・ジョルチ軍との(ソオル)は終わっていた」


 それから敵軍がどこへ向かうかと数百里も追ったらしい。イトゥクが言ったとおり南西指して駆け去ったとのこと。アサンが(フムスグ)(ひそ)めて言うには、


「行き先は西域(ハラ・ガヂャル)諸蕃のいずれか……。おそらく糧食(イヂェ)などを補給するためでしょう。必ずまた攻めてきます」


 サチが尋ねて、


「ファルタバンの兵力は?」


「約二万ほど。軍馬(アクタ)のほかに、数百頭を超える駱駝(テメエン)があった」


「駱駝……」


 歴戦の諸将も首を(かし)げる。もちろん駱駝は知っているが、軍においては見たことがない。騎兵として運用するのか、単に輸送を担っているのか、判断がつかない。


「いずれにせよ広く哨戒して、備えなければなるまい」


 暗澹たる調子でボッチギンが言う。


 みな頷いたが、前途は多難。何となれば敵人(ダイスンクン)は、亜喪神、梁、西域諸蕃、ファルタバンと四手(ドルベン)に分かれて、自在(ダルカラン)に攻守を替えながら戦える。


 すべてに備えるとなれば、まさに兵法に謂うところの「備えざるところなければ、すなわち(すく)なからざるところなし(注1)」の形。気づけば大網(ゴルミ)の中に誘いだされた恰好。といって、易々とイシを棄てて退くわけにもいかない。


「ひとつ突破できれば風向きも変わるのだろうが……」


 牙狼将軍(チノス・シドゥ)カムカが呟く。サチが首を振って言うには、


「なるべく兵を温存して、紅火将軍(アル・ガルチュ)と赫彗星を待とう」


 ウリャンハタ軍は、タクカの嚮導(きょうどう)(注2)に(したが)って移り、険阻(ケルテゲイ)な地形を選んでクリエン(注3)を形成する。互いに軽挙を戒め、ひたすら時日を稼ぐ。もし援軍が至らなくとも、(オブル)になれば大軍は動かせない。


 瑞典官イェシノルたち文官(ドゥシメット)は留守陣へ送った。すぐにファルタバン軍の出現を中原に報せて、さらなる援軍を請うよう伝える。


 鬱屈するクリエンに朗報を届けたのは、奔雷矩(ほんらいく)オンヌクド。


 まもなくキレカとソラが兵を率いてメンドゥ(ムレン)を渡ることを告げに来たのである。両氏族(オノル)のみならず、マシゲル部の迅矢鏃(じんしぞく)コルブも加わって総勢二万騎。幕僚として活寸鉄メサタゲも参陣するとのこと。


 オンヌクドは現況を聞くや、


「何と新たな敵軍が。渡河を急がせましょう」


 そう言ってすぐに(きびす)を返した。ともかく諸将は(ようや)く愁眉を開く。来たるべき反攻に備えて、おおいに腕を撫したが、くどくどしい話は抜きにする。




 決して気を弛めたつもりはない。しかし援軍がまもなく至ると聞いて、どこか安堵したのは事実である。


 とある早暁、(にわ)かにクリエンは、静寂を(つんざ)く轟音と、それに伴う火勢に襲われた。みな心臓(ヂュルケン)も止まらんばかりに驚いて跳ね起きる。ゲルを出てテンゲリを見上げれば、南方から何かが幾筋も飛んできて、そちこちで炸裂する。


 軍馬(アクタ)は怯え暴れて、すぐには鎮めようもない。わけのわからぬうちに東西からわっと喊声が挙がって、大地(エトゥゲン)を蹴立てて大軍が寄せてくる。驟雨(クラ)のごとく矢が降り注ぐ。


 悲鳴、怒号が交錯する。瞬く間(トゥルバス)にクリエンは蹂躙されて、血は(ムレン)となり、屍は(アウラ)となる。サチや、シン、スクといった勇将が(ようや)く事態を把握して、


「敵襲! 敵襲! 迎え撃て!!」


 叫び回ったが、混乱は増すばかり。すでに周囲は敵兵が溢れて、己の身を守るのがやっとの有様。呆然としている暇もない。

(注1)【備えざるところ……】限られた兵を四方八方すべてに分けて備えれば、いずれの兵力も少なくならざるをえない、という意味。


(注2)【嚮導】先に立って案内すること。指導すること。


(注3)【クリエン】複数のアイルの集団から成り立つ部落形態。主に軍団の駐屯に際して形成され、遊牧形態から戦闘形態への転換が容易である。圏営、群団などと訳されることもある。単位は「翼」。

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