第一七四回 ③
インジャ帝号を改めて大原合罕と為し
カノン叡慮を忖りて碧睛竜皇を救う
エジシが苦笑して、
「どうやらご婦人方のほうが、よほど胆が据わっているようですね」
すると、ソラがぎろりと眼を瞋らせて、
「そう言われては、好漢たるもの退くわけにはいかぬ。俺も行くぜ」
先ほどまでの丁重な言葉遣いも忘れて、腕を撫す。あわてたのはオンヌクド。
「待て、待て。草原のこともままならぬというのに、西域の遥か彼方の国家のことなど……」
カノンが蛾眉を吊り上げて、
「うるさい子だね! 何も明日、ファルタバン朝? に乗り込もうってわけじゃないんだ。まずは人の命を救うことが第一じゃないか。あとのことは、そのときさ」
オンヌクドは気圧されて口を噤む。代わってずっと黙考していたトオリルが言うには、
「よろしいか。一丈姐の志は尊ぶが、中原に王太子らをお連れしたとして、ひとつ難題がある」
「何さ?」
「黄鶴郎はもとより、おそらく王太子も言葉が通じぬ。太師は西域の語を通じて会話できるが、中原にそのようなものがあったか」
それを聞くと、カノンはどうしたことか不敵な笑みを浮かべて、
「そんなことかい。ならば懸念は無用だよ。西域の言葉なら、少し解る」
居並ぶものはジュゾウを除いて等しく驚く。そのジュゾウ独りがにやにやして、
「何という奇遇。これぞテンゲリの配剤、まさに命運だな」
「どういうことだ?」
ソラの問いに答えて語った顛末は以下のとおり。
先に神都がインジャに降ったことを受けて、カムタイに在った銀算盤チャオは、故郷である神都に帰った。両城を物心ともに結んで、さらに往来を盛んにするためである。
チャオは一人の側使いを伴った。色目人の青年である。それを知ったカノンが、たびたび訪れて言葉を習ったもの。まだ一年にもならぬほどだったが天稟(注1)に恵まれたらしく、瞬く間にある程度は喋れるようになったという。
みな、ほうと嘆声を漏らす。カノンは揖拝して言うには、
「とはいえ、まだ日常の用に足りるかどうかといったところ。このたびは、太師様が語学に堪能と伺ったので、直に教えを請わんとて参ったのです」
するとハリンもまた進み出て、
「私は西域ではなく、中華の言葉を教わりたいとて参りました」
コテカイはと云えば、
「西域の民族には、また独自の文字があるとか。私はそれを知りたいと思って参りました」
つまりいずれもエジシに入門するべく来たのである。当のエジシは目を円くして言った。
「おやおや、驚きました。ハーンのお許しを得ているのであれば、拒む道理がありましょうや。学びたいという志を鎖すわけにはいきません」
三人の女丈夫は手を取り合って喜ぶ。
「それはそれとして、だよ」
カノンが真っ先に話を戻す。ガネイにセトを呼ぶよう促すと、ヒラトに向き直って言うには、
「時は貴重です。みなさまは戦について諮ってください。王太子のことは外で別途話します」
「ようし、心得た」
ソラが真っ先に出ようとするのを、ジュゾウが制して、
「阿呆め、先に己が言ったことを忘れたか。お前は紅火将軍とともに援軍となるのだろう」
「そうであった! 黄鶴郎とやらに助力して、好漢としてあるべきを示したかったのだが……」
「そちらは一丈姐に委せておけ。お前が援けるのはウリャンハタだ」
たちまちおとなしくなる。ジュゾウもオルドに戻って復命せねばならぬ。ハリンやコテカイは文人にて危地に送るわけにはいかぬ。
そうやって人を選んでいくと、結局のところ自由に動けるのは、カノン、ガネイ、オンヌクドの三人のみ。
「まあ、人数が少ないほうが目に付かなくていいんだよ」
カノンは臆する色もなく、笑いながらオンヌクドの背を押して戸張をくぐる。ちょうどガネイがセトを連れて戻ってくる。その気品ある美しい容姿を見たカノンたちは、おおいに感心する。早速、話しかけて、
「あなたが黄鶴郎だね。私はカノン。王太子を助ける。草原にインジャ様という名君がある。きっと運が開ける」
セトはみるみる愁眉を開いて、
「ありがとう。君たちは恩人だ」
ガネイがわっと歓声を挙げて、嬉しそうに言うには、
「今のはわかった気がする! ありがとうって言ったんでしょ? ねっ!」
カノンはこれを抱きしめて言うには、
「そうだよ、妖豹姫は賢い娘だね!」
「賢くないよ! 言われたことないよ!」
「じゃあ、行こうか。『善事は矢のごとく』だ」
四人は一旦別れて、旅装を整える。替馬やら糧食やらはガネイが用意する。カノンは、ヒラトたちに出立することを告げる。ジュゾウに言うには、
「ハーンにこのことを忘れずに伝えるんだよ。ひと月のうちには帰るからね」
「承知した。しかしもし軍師あたりが異議を唱えて、ジョルチでは王太子を容れぬと決したらどうする?」
「ありえない。そんなことになったら裸で踊ってやるよ」
ジュゾウはぎょっして目を逸らすと、
「そういうことを言っているのではない。王太子たちをどうするかと訊いたんだ」
「戯言に決まってるじゃないか。もしものときは、ひとまず獅子殿か、超世傑殿に預けて時機を待つ。……何だい、赤くなってるよ」
「うるさい! とっとと行け!」
(注1)【天稟】天から授かった資質。生まれつき備わっている優れた才能。天賦。