第一七三回 ④ <セト登場>
サチ干戈を交えて喪神の血統に愕き
ガネイ貴紳を救いて太師の才華を歓ぶ
ガネイが焦れて言うには、
「困っているみたいだから、助けてあげようよ!」
するとヒラトは険しい顔で答えて、
「平時ならばお前の好きにすればよいが、現今の国難を思えばな……。察するに単に匪賊の類に追われているだけではなかろう」
「そう! だから相談に来たんだよ」
「しかもその男は、大カンに何を伝えんとしているのか……」
「解らないよ。言葉が難しいんだもの!」
言い合っているところに現れたものがある。言うには、
「どうなさいました。何かお助けできるかもしれませんよ」
戸口に立って拱手しているのは、何とボギノ・ジョルチ部の太師エジシ。ボッチギンからの早馬を受けて、百万元帥トオリルとともに軍議を為すべく訪れていたもの。ヒラトは愁眉を開いて、
「おお! 太師殿は、たしか異国の言語にも通じていたのでは(注1)」
そう言って事の次第を語れば、たちどころに了解して、
「会ってみましょう。もしかしたら話が解るかもしれません」
ガネイは欣喜雀躍して、
「ありがとう! すぐ連れてくる」
言うや否や、もう飛び出している。待つほどのこともなく一人の男を伴って戻ってくる。その人となりはと云えば、
身の丈は七尺半を超え、年のころは三十を過ぎる。白金の長髪は輝き、深緑の睛眸は煌めく。朱唇皓歯、容姿端麗、心性は高貴にして文武に卓れた絶才(注2)の主。西の大国に知らぬものなきその名はセト・イジュン。人呼んで「黄鶴郎」。
エジシはその容貌を見て、ほうと嘆声を漏らす。挨拶して幾つか試みに言葉を交わせば、やがてぽんと手を拍って、
「彼の母国語は解りませんが、いわゆる西域の言語を話せるようなので、何とか意思が疎通できそうです」
ヒラトとガネイは快哉を叫ぶ。
当のセトにとってはなおさらのこと、驚き、喜び、おおいに安堵した様子。エジシを介してみなと名乗りあう。先に挙げた名やら渾名やらは実はこのとき伝わったもの。
「それで、それで? セトさんは何と言ってるの?」
ガネイが栗鼠のように眼をきらきらさせて問う。エジシは莞爾と笑って、
「あわててはいけません。これからよくよく訊いてみるのですよ」
そしてまたしばらく会話していたが、エジシの顔はみるみる曇る。次第に眉を寄せて、声の調子も低く、暗くなっていく。
ついには頬に掌を当てて、長い唸り声を挙げる。セトの話はいつの間にか終わっていたが、しばらくは黙ったまま。
「……いったい何があったのでしょう?」
恐る恐るヒラトが尋ねれば、エジシは何と言ったものか小考していたが、
「まず、彼の出自は、遠く西方にあるファルタバン朝です」
「ファルタバン朝?」
「ええ。西域に連なる小国群のさらに彼方にある国家です。近年俄かに拡大して、今や大王朝となっているようです」
その未曽有の隆盛をもたらした王の名は、ファカール。だが「征服王」と称された彼も、齢六十になんなんとして漸く衰暮(注3)のときを迎えつつあった。
ファカールには文武に優れた壮年の王太子があった。この十年ほどの戦果はほとんど王太子の功績と言っても過言ではない。人々はこれに大きな期待を寄せて、王朝のさらなる繁栄を信じていた。ところが好事魔多し、思わぬ陥穽が待ち受ける。
ファカールの末弟、すなわち王太子にとっては叔父にあたるイブン・シールッディーンなる奸者があった。王位を狙うシールッディーンは、王太子が都を離れている隙に巧みにシャーを欺いて、その謀叛を信じ込ませてしまった。
そうとは知らぬ王太子は、召還の命令を受けて疑うことなく軍を離れ、僅かな従者とともに都へ向かった。入れ替わるようにシールッディーンの息のかかった将軍が赴任して兵権を奪う。
王宮にていよいよ奸者の毒牙が身に及ばんとしたそのとき、ついに危機を察知した主従は、間一髪でこれを躱して、身ひとつで逃げだした。
たちまち王命が下って、重罪人として追われる。すでに奸計の網は至るところに巡らされていて、行くところもない。シールッディーン独りならばいかようにもなるが、シャーの勅命がある以上、かつての部将たちも恃むことはできなかった。
もはや国内に隠れるところもなくひたすら逃げて、いつしか版図を脱する。十数人あった従者も、気づけば一人を残すばかりとなっていた。
「……その一人こそ、ここにあるセト殿なのですよ」
エジシの言葉にヒラトたちは驚愕する。
「何と! ではセト殿が助けてほしいと請うているのは……」
「ええ、ファルタバン朝の王太子ということになります」
このことから、異能の好漢は手を携えて異郷へ渡り、碧眼の貴種を助けて草原の大ハーンにまたまた翼を添える次第となる。
まさしく宿星の導く命運は千里をも越え、さながら水が高きより低きに流れるがごとく、英雄の大徳はついに異族をも心服せしめるといったところ。果たして黄鶴郎の望みは叶えられるか。それは次回で。
(注1)【異国の言語に……】エジシは草原のみならず、中華や西域の言語も解する。第 一 回④参照。
(注2)【絶才】ずばぬけた才能。またその人。
(注3)【衰暮】老いて衰えること。