第一七三回 ②
サチ干戈を交えて喪神の血統に愕き
ガネイ貴紳を救いて太師の才華を歓ぶ
手はずが整ったので、サチは進発を告げる。独り呟いて言うには、
「おそらく亜喪神は十年前の小僧ではないだろう。実地に覩るにしくはなし」
選び抜かれた二千騎は、勇躍して馬腹を蹴る。慎重に接近して、敵の対応を観る。ムカリはイシの包囲を緩めることなく、巧みに兵を分かってサチを迎撃する。自ら突出することなく、部将を差し向ける。
しばしの間、右へ左へ駆け回っていたが、ほどなく退却の命を下す。ムカリも執拗に追うことはせず、すぐに兵を退く。
サチは馳せ戻りつつ、スクに尋ねて、
「一角虎、あれをどう看た」
「ううむ。すぐには信じられないが、名将の差配であった」
「やはり」
言葉少なに答えて駆ける。陣に戻ると、みなに告げて言うには、
「ムカリめ、とんでもない将になったぞ。あれはまるで喪神鬼(注1)だ」
シンがおおいに驚いて、
「真か! 喪神鬼といえばウリャンハタに冠たる名将。あれは不肖の子と思っていたが……」
「その記憶はむしろ消したほうがいい」
そう言うとすぐに後退を命じる。敵人が容易ならぬものと判った以上、寡兵で留まるべきではない。
「竜騎士たちには悪いが、我々だけではどうにもならぬ。大カンに実情を報せて聖断を仰ぐ」
これには誰も異論がない。サチは頷いて、内心おもえらく、
「先の攻撃は小なりといえども城内から見えたはず。一応、友軍が近くにいることは伝えたのだから、きっと勇を得て守りきってくれるだろう」
数十里も退き、守るに易い地を選んで陣を布いた。
それから数日。たしかに援軍の影を見て、イシの城内は沸いた。守兵の士気は高まり、人衆の不安もやや鎮まる。しかし雪花姫カコは、奇人チルゲイに尋ねて言うには、
「どう思われます?」
「ううむ、情勢はあまりよろしくないな」
「やはり……」
「近くまで花貌豹が来ているのは疑いない。しかし兵が足りないのだ。敵情を測るべくしかけたが、以後動きがないのはそのためだ」
ヤザムもまた憂いを湛えて、
「むしろ敵の兵が増えたようですが……」
「それよ。中原から援軍が来たとは考えにくい。梁兵でもない。きっと造反したものが加わったのだ」
「奇人殿の予測が中たってしまいましたね」
カコが言えば、おもしろくなさそうに答えて言うには、
「外れてくれてよかったんだが。ついでに嫌なことを推測すれば、花貌豹の兵が足りないのは、叛徒に襲われてこれを失ったからだろう」
「何という……」
カコは言葉を失う。代わってヤザムが尋ねて、
「カムタイは、無事でしょうか」
「どうだろう。良いように考えれば、花貌豹たちは先にカムタイの救援に向かったのかもしれない」
「ああ、きっとそうですよ!」
しかしチルゲイは浮かぬ顔。カコが見咎めて、
「どうかされましたか?」
「いや、何でもない。とにかくここにいるうちは、城を守るよりほかにできることはない。せいぜい城外の変化によく目を配っておくことだ」
二人の賢婦は揃って頷いたが、この話もここまでとする。
相次ぐ急報に、衛天王カントゥカのオルドは上を下への大騒ぎ。聖医アサンが進言して、
「南方の形勢は急を告げております。もはや一刻の猶予もなりません」
「どうすればよい?」
「ここは大カンの親征を」
「うむ。親ら征きて亜喪神を駆逐してくれよう」
たちまち勅命は下って、二万騎が動員される。留守陣は潤治卿ヒラトに託される。また渾沌郎君ボッチギンが言うには、
「敵は華人や色目人の増援を得ております。我らも倣うべきです」
「倣うとは?」
「北の王大母と胆斗公、また中原の義君に助力を請うべきです。この戦は長くなりそうです。今から手を講じておいたほうが」
「よろしい」
応じてすぐに早馬が放たれる。
あわただしく出征の準備を進めているところに、ひょいと顔を出したものがある。すなわち妖豹姫エミル・ガネイ。ボッチギンが険しい顔で、
「ああ、妖豹姫。今はお前の相手をしている暇はないのだ」
ガネイは頬を膨らませて、
「忙しいのは知ってる。でもエミルだって用があって来たんだよ」
「それは急ぎか」
首を傾げて小考すると、
「たぶん。でもよく判らない」
「ならばまたにしてくれ!」
ボッチギンは目を剥いて声を荒らげる。しかしすぐにはっとして、
「大声を出して悪かった。我らが発ったあと、ゆっくり潤治卿に諮れ」
ガネイはやや不満そうだったが、やがて頷いてその場を辞す。
(注1)【喪神鬼】名はイシャン。ムカリの父。ミクケルの中原遠征の先鋒となってインジャらを苦しめた。第二 五回①ほか参照。サノウの計略によって落命した。第二 九回①参照。