第一 八回 ①
ナオル義兄に天無二日の理を諭し
ヒスワ大人に遠交近攻の計を説く
トシ・チノはサルカキタンを破ったことを祝って、またインジャら客人のために盛大な宴を催した。奇しくもここに乱世の手綱を執るべき英傑好漢が集った。
中央で大杯を手に笑うは、ベルダイ左派の族長トシ・チノ。そしてマシゲル部ハーンの嫡子、マルナテク・ギィ。さらに我らがフドウ氏族長インジャ。
華を添えるのはギィの正妻、キハリ家のアンチャイ。同じくキハリ家の女傑チハル・アネクとタリエス家のキノフ。
控える好漢はジョンシ氏族長ナオルを筆頭に、神都のゴロ、ハツチ、ジュゾウ。加えてイタノウの族長マルケ。そのほかベルダイの諸将が興を分かつ。
あるものは戦功を誇り、あるものはギィとアンチャイの結婚を祝し、あるものは理由はともかく酒が飲めるのが嬉しくてしかたないといった有様。特に主人のトシ・チノは誰にもまして上機嫌である。
「何とも愉快ではないか。今日の勝利で右派は立ち直れまい。ジョルチ部がひとつになる日も近いぞ!」
その言葉を聞くや否や、ナオルがあっと声を挙げて杯を落とす。顔色は真っ青である。インジャがあわてて尋ねる。
「どうしたのだ、気分でも悪いのか」
「少々飲み過ぎたようで……」
そう言いつつ目配せする。インジャはわけがわからなかったが、頷いてトシ・チノに言うには、
「ナオルが悪酔いしたようなので、ゲルまで送ってまいります」
「それはいかんな。誰か呼んで送らせようか」
「いえ、みなはそのまま宴をお楽しみください。あとで戻ります」
「そうか」
それでもう二人のことは忘れて、また「愉快、愉快」と繰り返す。ナオルは一礼するとインジャに伴われてふらふらと宴席を離れた。
ゲルに着くや具合の悪そうな様子から一変、素早く辺りを見回し、インジャの背を押して中に入る。
「どうしたんだ、いったい。おかしいぞ」
問えばナオルは口に指を当てて囁いた。
「先のトシ殿の言葉、聞きましたか」
「何のことだ?」
「トシ殿いわく『ジョルチ部がひとつになる日も近い』と」
「それがどうした。そのとおりではないか」
ナオルは首を振る。
「部族がひとつになれば、ハーンを選出せねばなりません。古言に『上天に二日なく、大地に二王なし』と謂います。今、ジョルチ部を見渡すにハーンたりうるものは……」
ひと呼吸置いて、
「義兄とトシ殿だけです」
そしてインジャの顔をじっと視る。何も言わないので再び口を開いて、
「トシが大望を抱いているのは明らかです。その最大の障壁こそ義兄なのですぞ」
「待て。私はハーンになろうなどと思ってない」
「義兄が望まなくともハーンの選出には影響しません。その方法をご存知ですか」
インジャは黙って首を振る。ナオルは溜息を吐くと言うには、
「各氏族の長老、重臣たちがクリルタイを開いて決めるのです。ハーンは部族の命運を左右する存在。よって人格、才略、血統などあらゆる面が考慮されます。当人の意向など意味はありません。だからなろうとして容易になれるわけではなく、なりたくないとしても指名されれば受ける義務があるとされています」
さらに続けて、
「クリルタイの決定は草原においては絶対です。ハーンの勅命すら、その前には一歩を譲るのです。例えばハーンが己の子に継がせたいと望んでも、クリルタイで否決されれば決してハーンにはなれないのです。ここが氏族の族長を選ぶのと大きく違うところです」
そこで一旦間を置くと、繰り返して言うには、
「クリルタイの決定は絶対なのです」
「しかし、それならなおのことトシ殿がハーンになるのが相応ではないか。私は才略も戦歴も劣っている」
「まことにそうでしょうか。今日の戦の前にトシ殿が言ったことを覚えていますか。いわく『貴殿の力はベルダイ両派とともにジョルチ部を三分している』と。いえ、少し訂正しましょう。右派が後退した今、義兄はトシ殿と部族を『二分』しているのです」
「……」
「しかもトシ殿が掌握しているのはベルダイの一部のみ、兵力は六千騎ほどです。対して義兄は、フドウ、ジョンシ、キャラハン、ズラベレンの四氏を統べ、擁する兵力は一万を数えます。これを以てこれを見れば、トシ殿が義兄に勝るなどと誰が言えましょう」
インジャは口を尖らして反論した。
「それは違うぞ。一万といっても純粋にフドウの騎兵は二千ほどで、あとはジョンシやズラベレンの兵だ。やはり私は……」
「しかし考えてみてください。数年前までフドウの兵はいなかったのですぞ。それがはや二千。さらにジョンシやズラベレンの人衆も義兄の徳を仰いでおります。何より族長である私やコヤンサンが義兄に心服しているのです。疑うことなく一万騎、しかもそれはこの数年でまったくの無から手に入れたもの。これこそテンゲリに嘉されている証と云ってよいでしょう」
知らずナオルは熱弁を振るっていた。はっとして口を噤み、外の気配を窺う。遠くでときどき笑い声が起こるほかは何も聞こえない。ほっとしてまた声を落として話しはじめる。
「ともかく義兄はトシ殿の大望にとって目障りに違いありません。謙虚なだけではなく慎重になる必要があります。さあ、宴席にお戻りください。あまり離れているとよくありません」