第一七二回 ④
素蟾魄自ら陳べてチルゲイの思慮を補い
白日鹿忽ち出でてヤムルノイの危急を救う
帰還した勇将たちを、チルゲイが歓声を挙げて迎える。しかしカコは青ざめた顔でヤムルノイを責めて言うには、
「まったくあなたという人は。私たちは殆うく僚友を一人失うところでした」
「申し訳ない。矮狻猊たちを逃すことしか考えていませんでした。白日鹿が現れなければきっと死んでいました」
「そうだ! 君を救った佳人はいったい……」
チルゲイが問えば、答えて言うには、
「俺の幼少からの知己で、名はミアルン。人からは白日鹿と称されている」
「おい、鉄将軍。こんな有能な佳人をこれまで推挙しないとは、国家の損失というものだぞ」
呆れたように言いつつ見遣れば、ミアルンは温顔に微笑を湛えて、恭しく揖拝する。傍らからササカが興奮した様子で言うには、
「この夫人にはまったく驚かされたよ。不意に現れたと思ったら、私が開門を命じる前に城壁から綱を垂らして、止める暇もなく降りていったんだからね!」
やはり旧知らしいヤザムが、胸の前で両手を握り合わせて、
「心臓が止まるかと思いました。常にはおっとりしているのに、まさかあんな無理をするなんて……」
ミアルンは頬を染めて、恥ずかしそうに俯く。先ほどまで果敢に戦っていた女丈夫と同じものとも見えない。ササカがなおも激賞して、
「そのあとも凄かったよ。疾風のごとく駆けて敵から馬を奪うや、一直線に斬り込んでいった。たいしたもんだよ」
「もうそのくらいで……。はしたないことをしました。お恥ずかしい」
いよいよ身を小さくして、消え入りそうな声で懇願する。その恭倹な態度に好漢たちはますます感服して、喜んで席を与えることにした。
「さて、為すべきことはやった。矮狻猊たちは間に合うかな」
チルゲイが呟いたが、もちろん答えられるものはない。あとはテンゲリの加護を恃むばかり。
そのタケチャクとクミフは、先にチルゲイが勧めたとおり一旦中原に渡って、やおら北上に転じる。様子を見て再び西原に戻り、ひと息にカムタイを指した。
が、結論から述べれば、二人は危急を報せることはかなわなかった。現地に達したときには、すでに落城していたからである。城壁には見たこともない旗が翩翻としていて、明らかに異国の兵が立哨していた。
タケチャクは切歯扼腕して言うには、
「何と、すでに遅かったか! 娃白貂、俺は少し辺りを探って、一角虎らがどうなったか査べる。お前は麒麟児にこのことを報せよ」
クミフは下唇を噛んで頷くと馬首を返したが、くどくどしい話は抜きにする。
さてここからは、次第に判明したことや、のちに相次いで起こったことを縷々述べることにする。いずれも東城に籠もる好漢たちが知ったのは、だいぶあとになってからである。
カムタイが陥落した経緯は、ほぼヤザムの意見をもとにチルゲイが予測したとおりであった。
シータ海を梁兵を満載した大船団が押し渡ったのは、イシが包囲されてまもなくのこと。主将は征胡将軍たる石元正、副将は平西将軍の柳広敏。兵力は約五万。
光都を落としたときと異なるのは、ヤクマン部の兵が加わっていないこと。その代わりというわけではないが、異形の色目人たちがあった。すなわち紅百合社のものどもである。
その首魁は何と女。齢は四十前後、豊かな黒髪を靡かせ、身の丈は七尺を優に超える。その性は残忍にして狡猾。名は、ハーミラ。ファルタバン朝の人衆からは、「吸血姫」と渾名されて怖れられている。およそ千人の手勢を連れて同船する。
上陸してカムタイに進めば、もちろんすぐにスク・ベクの知るところとなる。麾下には勇将なく、クニメイをはじめとする文官があるばかりだったが、恐れる色もなく守りを固めるよう命じる。
イシと同じく籠城戦が始まるかと思いきや、カムタイは呆気なく落ちた。
城内に潜伏していた紅百合社のものが衛兵の背後から襲いかかり、あっと言う間に敵軍を迎え入れてしまったのである。四門すべてに然るべき将を配置できていれば、かくも容易には崩れなかったかもしれないが、いかんせんスク独りでは防ぎえない。
スクは怒り心頭に発して市街に戦わんとするも、クニメイたちがこれを押し止めて、とにもかくにも脱出を図る。中軍の二千騎が、スクと文官たちを守るべくひとかたまりとなって北門に向かった。
すぐにこれに気づいた梁軍と乱戦になる。ここはスクの奮迅の活躍で漸く突破した。平原に出てからも執拗な追撃を受けて数多の兵を失ったが、何とか僚友に欠けるものなく逃げきる。
みなは諮って、ネサク氏族長たる麒麟児シンに助けを求めることにした。スクは忿怒のあまり馬上で幾度も気を失う有様。互いに励まし合って道を急ぐ。
彼らはついに合流を果たしたが、ここでも四頭豹の奸計に先んじられる。何となれば、シンもまた敗残の身だったからである。
シンは衛天王カントゥカの勅命を得て、知世郎タクカとともにイシを救援するため全軍を挙げて発った。
その後背を奇襲されたのである。
誰の手によるかと云えば、何とウラカン軍。カトメイの命を受けて援軍となるはずの兵が、卒かに友軍を襲ったことになる。タクカが語ったところによれば、
「かつて渾沌郎君の『上屋抽梯の計(注1)』に欺かれたフフブル(注2)が叛したのだ。大カンが立ったのちはもちろん留守の任から外されていたが、いつの間にか復権して四頭豹に通じていたらしい」
ここでもまたチルゲイの予測は中たったわけだが、その影を捉えても実を把まなければ何の意味も成さない。幾重にも巡らされた奸計に翻弄されるばかり、譬えて云えば暴風に舞う砂塵のようなもの。
すべては平和に驕って警戒を怠った報いだが、今さら悔やんでも「零した馬乳酒を戻すことはできない」。果たして、ウリャンハタ部の命運はどうなるか。それは次回で。
(注1)【上屋抽梯の計】屋に上げて梯を抽すの意。敵を騙して逃げられない状況に追い込む計略。
(注2)【フフブル】かつてカトメイの父ツォトンに代わって、留守のアイルを束ねていた。第六 六回①、および第六 六回②参照。