第一七二回 ① <ヤザム登場>
素蟾魄自ら陳べてチルゲイの思慮を補い
白日鹿忽ち出でてヤムルノイの危急を救う
さて、西原に吹き荒れた暴風が止んだ。夏である。待ちかねたように亜喪神ムカリ率いる三万騎が、メンドゥ河東岸に集結する。
それはまずジョルチの南西を守る紅火将軍キレカの知るところとなる。注視していると、どうやら西原に渡る様子。あわてて衛天王カントゥカに早馬を送る。
時を同じくして矮狻猊タケチャクもその動きを察知する。自ら東城に入って伝えれば、みな腕を撫して守備に就く。城壁に並んで眺めていると、対岸に続々と兵馬が押し寄せる。
「来たな」
竜騎士カトメイが呟けば、蒼鷹娘ササカが応えて、
「まるで蟻のようじゃないか。いよいよ始まるんだね」
「ああ。久々に亜喪神と遊んでやるとしよう」
そのうちにも先遣隊が河に入る。水量はまだ最大に達していないので、浅いところを探れば騎馬のまま渡ってこられる。ゲルやら輜重やらは舟に載せて運ぶ。
まず敵軍が展開せんとしているのは、どうやら城塞の南から西にかけて。守る側も応じて兵を動かす。やがてすっかり包囲が完了する。粛々として統制に隙はない。雪花姫カコが、眉を顰めつつも感嘆して、
「かつて戦ったときより亜喪神は成長しているようです」
奇人チルゲイが頷いて、
「先に中原では、あの胆斗公や超世傑らと闘い合って、一歩も譲らなかったとか。昔日の小僧ではないということだ」
またタケチャクが望見して、
「およそ三万騎といったところだな。我らは一万か」
「ならば心配ない。五倍、十倍あれば苦戦もしようが、三倍なら必ず勝てる」
カトメイが力強く言ったので士気はおおいに高まったが、その日は睨み合うだけで暮れる。
陽が昇って、今日こそは干戈を交えるかと勇んだが何も起きない。整然と陣を構えたきり、しんとしている。翌日も、その翌日も、やはり動かない。
チルゲイが訝しんで、
「あの血気盛んな亜喪神がじっとしているのは、何とも気味が悪い」
「四頭豹より指示が出ているのでしょう」
カコが言えば、タケチャクが答えて、
「やがて大カンの勅命を受けた花貌豹と麒麟児が加勢に来る。敵人が動かないなら、それで好い」
そう言い合っているところに役人がやってきて言うには、
「方々にどうしても面会したいというご婦人が……」
「婦人? 戦の最中だぞ。追い返せ」
カトメイが言ったが、困惑して立ち尽くしている。
「どうした、聞こえなかったか」
「……いえ。ただそのご婦人は、双城の保全について重大な進言をしたいと、こう申しているのですが」
チルゲイがはっとして、カトメイを制して言うには、
「通してくれ! 我らの目はすでに曇らされているかもしれぬ。いまだ囚われていないものの意見を聞いてみたい」
そう言われれば、みな否やはない。待っていると、おずおずと入ってきたのは一個の婦人。その人となりはと云えば、
身の丈は七尺にやや足らず、年のころは雪花姫らと同じほど。髪は多く黒く縮れており、顔は広く丸く平らか。眼は円く巨きく栗鼠のごとく、胴は厚く太く牝牛のごとし。天真にして明哲、柔婉にして仁恕、まさに一個の賢婦人。
「おお、貴女は我らに良い智恵を授けてくれるとか!」
チルゲイはおおいに喜んで席を進める。名を尋ねれば、答えて言うには、
「ヤザムと申します。私のようなつまらぬもののために貴重な時を割いていただき、ありがとうございます」
するとカコがつと目を上げて言うには、
「もしや貴女は、世間から『素蟾魄(白い月の意)』と称されている方ではありませんか」
「恥ずかしながら、そのように呼ぶものもあるようです」
聞けば、その正直な性向を尊んで付けられた渾名だとか。みなますます喜ぶ。改めてチルゲイが問う。
「それで、貴女のお考えとは?」
答えて言うには、
「はい。今、東城はこうして大軍に囲まれておりますが、攻めてくる様子がありません。これには敵人の深謀遠慮があるのではないかと……」
「深謀遠慮とは?」
「……みなさまのようなセチェンに私ごときが説くのは今さらですが、これは文字どおり『声東撃西の計』を行わんとしているのではありませんか」
ササカが莞爾と笑って、
「あら、それなら先にこの奇人が言ってたよ。逆に西城の治安を乱して耳目を集め、その隙に東城を攻めるんだとね。おかげでこうして備えも万全なんだ」
ヤザムは目を円くして、みるみる愧じ入ってしまう。しかしチルゲイは、それに負けぬくらい目を見開いて叫んだ。
「ああっ、しまった!! 私としたことが!」