第一七一回 ④
ヤムルノイ東に浪蕩子の沈酔を毀り
クミフ西に紅百合の跳梁を知る
ところがチルゲイの配慮は、あまり意味を成さなかった。黥の件が漏れたためではない。まともな色目人たちは、身を保つべくカムタイを離れたからである。
ウリャンハタの版図を逃れて、西域に数多ある小国群に仮寓(注1)するものもあれば、ファルタバン朝など遠い本国まで帰ったものもあった。
残ったのは路銀のない貧しいもの。彼らは自棄に落ちたか、次々と罪を犯した。先のごとく兇悪なそれではない。食うに困ったあげくの窃盗の類である。捕まえてみれば身体に件の黥もない。すなわち紅百合社とは無縁のものたち。
しかしカムタイの人衆は、そんな内情は知らない。やはり色目人は悪なのだとて、ますますこれを怨む。
そのうちに物品や糧食が欠乏しはじめる。交易が減ったのだから当然のことだったが、人心はいよいよ荒廃して、ついには出自を同じくする従来の住民の間でも諍いが頻発する。
知事のスク・ベクはもちろん、助勢に来た好漢たちも頭を抱えて為す術もない。ひたすら法を整えて粛々と行い、世が治まるのを待つばかり。堪りかねたスクが、
「いっそ軍卒を市中に配して、厳しく戒めたらどうだろう」
これについてはクニメイはもちろん、イェシノルもミヤーンもクメンもみな口を極めて諫めたので、何とか思い止まる。
スクはもとより戦場における猛将にて、内治の手綱を捌くのは得手ではない。もどかしい思いはいかんともしがたく、めっきり鬱ぎこむ。
クミフはイシに戻って、チルゲイたちにその様子を伝える。みな暗鬱たる心地となったが、どうすることもできない。クミフは席の暖まる暇もなく発って、タケチャクの調査に加わった。
そのタケチャクからはときどき報告が来る。ヂュルチダイの資質はいまだ不分明だが、亜喪神ムカリが出陣の用意を進めているのは間違いないとのこと。それを聞いて、イシの緊張はいよいよ高まる。
しかしどうしても判らないことがあった。造反して亜喪神に助力しそうなものが見当たらないのである。
「おかしいな。きっと見落としているものがあると思ったのだが……」
チルゲイが首を傾げる。ササカがその肩を叩いて、
「良かったじゃない。査べた上でいないんだから、いないんだよ」
「ううむ……」
どうも得心しない様子。ある日、タケチャク当人がイシに来たので、改めて問うて言うには、
「まことに、まことに怪しいものはないか」
「うむ。不審な動きはない」
「ゆえなく兵馬を整えているような……」
「ない。大カンから変事に備えるよう命じられた麒麟児と花貌豹。それから、最近になって竜騎士から命を受けたウラカン氏(注2)。それだけだ」
チルゲイはカトメイに向き直って、
「平原にあるウラカン軍には、たしかに出陣の準備を命じたのだな」
「ああ、間違いなく私が早馬を送った」
「ふうむ、そうか……」
カコが気遣わしげに言うには、
「奇人殿は何をそんなに憂えているのでしょう。亜喪神は必ず西原に味方を索めると考えているのですか」
「確信があるわけではないが……。奴らが徒手空拳、無為無策に渡河してくるとは、どうしても思えないのだ」
カコはひとつ頷くと、自らにも言い聞かせるように、
「何が起きてもいいよう、心を決めておきましょう。蒼鷹娘に倣うべきです」
「まあ、やむなしだな」
さすがのチルゲイも口を噤まざるをえない。
ところ変わって中原。四頭豹は亜喪神を召して、からからと笑うと、
「西原の狗が徘徊しているようだな」
「はい、実に目障りです。……擒えますか」
「放っておけ。むしろお前の出兵は敵に伝わってよい」
そこに現れたのは、ヤクマン部に仕える色目人の頭領とも云うべきウルイシュ。
「カムタイへの調略、すべて了えました」
「好い! 例のものたちは?」
「すでにこちらに。命があればいつでも」
「ますます好い。私が時機を見て命を下す。すぐに発って、次の策にかかれ」
「承知しました」
ウルイシュは多くを問わずに去る。黙って近侍していた小スイシが言うには、
「カムタイは治安がおおいに紊れているとか。ウリャンハタのものはあわてていることでしょうなあ」
四頭豹は上機嫌のままに答えて、
「覚えておけ。草原の民はたしかに欺きやすいが、まことに御しやすいのは街の民だ。人は群れれば群れるほど操りやすくなる。もしかすると羊よりも」
「さすがでございます」
「それよりもお前に嘱んだ件はどうだ?」
「上々でございます。きっと衛天王も肝を潰すことでしょう」
「ほう、期待しておこうか。では亜喪神、ついに積年の仇怨を晴らすときが来たぞ。存分に暴れてこい」
「承知!」
待ってましたと言わんばかりに、勇躍して去る。ついに亡君の遺児を奉じて、姦兇の勇将が河を渡らんとする。
数万の強兵に加えて、奸謀は幾重にも巡らされている。西原の好漢たちはその全貌をまだ把んでいない。「危うきこと累卵のごとし(注3)」とはまさにこのこと。果たして、竜騎士たちはいかにして亜喪神と戦うか。それは次回で。
(注1)【仮寓】仮に住むこと。
(注2)【ウラカン氏】その族長は竜騎士カトメイである。
(注3)【危うきこと累卵のごとし】累卵とは積み重ねた卵。極めて不安定で危険な状態を指す。