第一七一回 ①
ヤムルノイ東に浪蕩子の沈酔を毀り
クミフ西に紅百合の跳梁を知る
さて、奇人チルゲイは、雪花姫カコと蒼鷹娘ササカを伴って、イシの竜騎士カトメイに見えた。みなが呆れるのをよそに酒を所望して、ついには酩酊して寝てしまう。
鉄将軍ヤムルノイが現れた夕刻、やっと起きたかと思えば、わけのわからぬことばかり言う。しかし独りカコは、チルゲイが何か思いついたのだと気づいて、
「もしや敵人の奸謀を看破したのですか!?」
「さっきからその話をしているんだが……」
みなであれこれ問ううちに、ひとたびは我に返る。「声東撃西の計」など説いて、四頭豹ドルベン・トルゲに奸謀があることを語りはじめる。
いよいよ佳境に入って、イシの攻略すら枝葉末節、さらなる大計があると示したところで再び朦朧となってしまった。まさに卓に伏さんとすれば、ヤムルノイがその頭をむんずと拏んで言うには、
「おい、寝るな! 今寝たらすべて忘れるぞ」
チルゲイは、はっとして、
「なるほど、道理がある」
新たに用意された水をがぶりと飲んで、
「夢中で得たものは、きっと夢中に返る。うん、道理だ」
そう言って満悦の体。この機を逃すまいとて、カトメイが尋ねて、
「東城もまた末節とはどういうことだ?」
「どういう? 先に鑑みるべき事例がある。東原だ」
ササカが頷いて、
「ははあ、たしかに四頭豹は光都のみならず、東原の南半を奪ったらしいね」
「然り。となれば、西原に限って東城のみで満足するということはない」
カトメイが首を傾げて、
「だが判らんな。色目人をして西城を鬧がせることが、どう西原の侵略に結びつくのか」
「私もそこまでは知らぬよ」
そこで口を開いたのは、白面の佳人カコ。言うには、
「先ほど奇人殿は、子がどうとか、遊び駒がどうとか言っておりましたが。また、誰かがどこかで待っているというようなことも……」
するとチルゲイは欣喜雀躍して、
「おお、おお、そうだった! さすがは雪花姫! それよ」
「……それとは?」
途端にまじめな顔で答えて言うには、
「よいか。四頭豹の手許に西原に所縁ある大駒がある。もう十年も遊ばせているが、どうこうしたという噂も聞かぬから、まだあるのだろう」
「何だい、その大駒というのは。もったいぶらずにさっさと教えなよ」
ササカが促せば、指を立てて、
「……ミクケルの遺児だ。亜喪神は独りではなく、これを伴って投じたはず」
それを聞いて、みなあっと声を挙げる。報せを受けたときはおおいに驚き、憂えたものだったが、十年のうちにすっかり忘れていたのである。
「まさか今ごろになって……。奇人の言葉とはいえ信じがたい……」
思わずカトメイが呟く。チルゲイは小さく首を振って言った。
「東原を動乱の渦中に落とした覚真導師が現れたのも、追放されてより十年のちのことだった」
みな息を呑んで黙り込む。しばらく暗然としていたが、カコが気を取り直して、
「もうひとつ。誰かがどこかで待つ、というのは……?」
「いかに亜喪神といえども、西原に味方がなければ、メンドゥ河を渡って留まるのは難しい。きっとどこぞの誰かが手を貸すに違いないと睨んでいるのだが……」
ササカが大きな眼をいっぱいに見開いて言った。
「誰が!? 誰が今さらミクケルの遺児に助力するって言うの?」
チルゲイはううむと唸って腕を組むと、
「それが判らん。蒼鷹娘の言うとおり、今や我が大カンの覇権は盤石。聖医らの施政も当を得て、ついぞ不平の声も聞かぬ。ミクケルの傍にあった奸臣の類も、先年の戦でことごとく死んだと思ったが」
カコが憂いを湛えて、
「見落としているのです。当時は大カンの勢威に屈したが、心に怨みを飼っているものを……」
「ちょっとあれこれ査べなきゃならん。我らだけでは手に余る。ぜひとも矮狻猊の力が必要だ」
それに応えてカトメイが言うには、
「すぐにオルドへ早馬を……。いや、鉄将軍。足労だが君が行って、しかと説いてまいれ。迂闊なものには委せられぬ」
「承知。今から発ちましょう」
嫌なそぶりひとつ見せない。チルゲイがさらに言うには、
「花貌豹や麒麟児にも戦備を怠らぬよう伝えてくれ。近いうちに必ず亜喪神がメンドゥを渡ってくると思わなければ」
「真かい? まだ私は信じられないよ」
ササカが青い顔で言う。チルゲイはそれを顧みて、
「備えあれば何とやらだ。来なければ来ないで良いではないか。それにこちらに備えがあると知れば、奸謀があっても諦めるかもしれぬ」
「だといいんだけど……」
「だいたい我らは常に警戒しているつもりで、やはり平和に慣れて弛んでいた。だって、そうだろう? この十年、誰かミクケルの遺児に気を払ったか? そもそもかの遺児の名を覚えているものがあるか?」
みな愕然として目を伏せる。
しばしの沈黙のあとササカが顔を上げてみれば、チルゲイは首を折ってすうすうと寝息を立てていたが、くどくどしい話は抜きにする。