第一七〇回 ④
オクドゥ迷妄に斃れて瑞典官憂虞し
チルゲイ酒色に興じて雪花姫沈着す
実際に酒食が並ぶと、チルゲイはたちまち顔を輝かせる。左右にはカコとササカ、二人の艶麗な佳人があって次々と杯を満たす。
「やあ、至福だ。旧知の美人と飲む酒が、もっともうまい」
カトメイは、次第にはらはらして言うには、
「なあ、そろそろこのイシがどうすればよいか、考えてもらえまいか」
「無粋なことを言うんじゃない。ほら、竜騎士も飲め、飲め」
断ろうとするのを制したのはカコ。黙ってカトメイの杯に酒を注ぐ。やむなくちびりちびりと飲みながら機を待つ。
ところが一刻、二刻と飲むうちに、チルゲイは酩酊して、ついには卓上に伏せてしまった。ササカは唖然として、
「結局何も智恵を出さずに寝てしまったよ。雪花姫、どうしてくれるんだい?」
するとカコは涼しい顔で、
「これだけ油を足せば、夢のうちでも考えを運らせていますよ。しばらく放っておきましょう」
ササカはカトメイと顔を見合わせて、言葉もない。
夕刻になって、日々市街を巡回しているヤムルノイが報告に訪れる。入るなりぐうぐうと寝息を立てているチルゲイに気づいて、眉を顰める。しかしかまうことなくカコとササカに一礼して言うには、
「イシの治安は保たれています。諍いもなく、平穏そのものです」
「やはり瑞典官の布告が奏功したのだな。だが怠るな。西城の混乱を戒めとせねば……」
カトメイが言い終わらぬうちに、
「それは殆うい! 殆ういぞ!!」
大声の主は、無論チルゲイ。気づけばむくりと顔を上げ、酔眼にて虚空を睨んでいる。
「奇人殿、どうした。夢でも見たか」
ヤムルノイが問えば、酒気を含んだ息を吹きかけつつ、
「おお、おお、鉄将軍だ! 相変わらず謹直で何より」
答えに窮しているうちに、ううむと唸って頭を抱えると、
「水を、水を一杯くれないか」
「まったくどうしようもないね!」
ササカが水差しを取って、新しい杯に注いでやる。受け取るやぐいと干して、
「ふう、どうも美人相手だと量を過ごす」
一杯では足りずに水差しを奪うと、注いでは飲み、注いでは飲み、やがて空にする。そしてぶつぶつと言うには、
「ああ、あれだ! いや、東と西が逆だった」
ササカが蛾眉を寄せて、
「わけがわからないよ。まだ覚めてないのかい?」
取り合わないどころか、卒かに再び大声で言うには、
「戒め!? 無用、無用!! ……ああ、実に気分が好い」
途端ににやにやしたかと思えば、何やら独り頷きつつ、
「それはそうだ、子はいずれ大きくなるものだ。然り、遊び駒は使わないなら棄てたほうがいい」
誰と喋っているのかも判らない。呆れたことに、いつの間にやら酒杯を手にしている。止める暇もない。再び飲みはじめながら楽しげに言うには、
「誰が待つ! どこにある! そして私は何をする。はっはっは!」
もはや堪えきれずにササカが声を荒らげる。
「いったい先から何を言ってるんだい。寝惚けるのもそれくらいにしな!」
「おお、蒼鷹娘。君は怒れば怒るほど美貌が冴えるな」
「浪蕩子っ!」
ところがカコだけは、はっとチルゲイの顔を正視して、
「奇人殿、……もしや敵人の奸謀を看破したのですか!?」
「何だって!?」
余のものは異口同音に驚愕する。チルゲイはきょとんとした様子で、
「看破? そこまではまだ。しかし、さっきからその話をしているんだが……」
カトメイが勢い込んで、
「我々にも解るように話してくれ!」
「ああ…………」
ぽかんと口を開けて困惑した様子。辛抱強く待っていると、俄かに目の焦点が合って、すらすらと話しはじめる。
「四頭豹はたしかに何か画策している。先年までは東原を擾して、ついにその半ばを奪った。次の標的はきっと西原」
「それで、どうやって?」
問うたのはササカ。答えて言うには、
「まだ判らん。だが西城を鬧がせたのはその端緒には違いない。しかしながら、東城には必ず別の方略を採る」
「なぜですか」
「君たちは知らんか。『東に声して西を撃つ』という策がある。一方を盛んに攻めて、そちらに耳目を集めた隙に、他方を落とす計略だ」
ここでひとつ大きく欠伸する。
「今は東西が替わっているがな。西城に騒動を起こして、狙うは東城。ならば同じ方策を使うわけがない。警戒しているに決まっているからなあ」
「なるほど、それで……」
カコは得心して、なおも問う。
「四頭豹のまことの狙いは東城なのですね?」
何と答えたかと云えば、
「いや、それもまた、全体から瞰れば、末節のこと、だろう」
驚いて続きを促そうとすれば、チルゲイは再び卓に伏さんとしている。
ここで謹厳にして意志の鉄がごとき将軍が言ったことから、酒精のもたらした智恵はついに夢中に消えることなく、奸謀の影はことごとく好漢女傑の知るところとなったわけだが、まさしく「酔語は旭日を見ず(注1)」といったところ。
果たして、誰が何と言ったか。それは次回で。
(注1)【酔語は旭日を見ず】酔った上での言葉は翌朝には忘れているという意味。