第一六九回 ②
インジャ紐帯を慶びて小皇帝戴冠し
ドルベン策動を始めて紅大郎惶急す
インジャは、端座するモルテに言った。
「もし我らがヴァルタラを西原のカンとしてよいと言ったところで、王大母をはじめボギノ・ジョルチの人衆が善しと言わなければならぬぞ。今のところはまだ賢婀嬌の私案に過ぎないのだろう」
「はい、おっしゃるとおりです。私自身はもちろん良案と信じておりますが、みなが否と言えば拘泥するものではありません。今はただご両親であるハーンとハトンの許諾が得られるか、お尋ねしているだけです」
「ふうむ」
インジャはひと声唸ってやや身を引く。代わってアネクが口を開いて、
「ヴァルタラはたった七歳。カンとしたところで何ができるわけでもありません。貴女たちに預けたとして、その身の安危や養育について誰が責を負えますか」
モルテは頷いて、
「ハトンがご心配なされるのは当然です。我らとしては、尊きご子息を他郷にてお預かりするわけですから、無論部族を挙げてお護りいたします。また太師や王大母、黥大夫、そして及ばずながらこの私も、ご子息が優れた王となるよう訓導、教養に尽力させていただく所存です」
インジャはほうと嘆声を漏らして、
「太師はもとより、みな望んでも得られぬほどの良き師であるには違いない」
モルテは黙って頭を下げる。しかしアネクが言うには、
「私もそれについては同意します。ですが、やはりボギノ・ジョルチは遠方……。母として軽々に諾うことはできません」
モルテはつと顔を上げて、
「畏れながら、もうひとつ提案がございます」
「何かな?」
インジャが問えば、答えて言うには、
「ヴァルタラ様を単身で西下させることは、たしかに七歳の子にあまりに酷というもの。そこで……」
「そこで?」
「はい。ハーンの信頼厚く、また西原の情勢に明るいご僚友を、輔翼としてともに派遣していただくというのはいかがでしょう」
「ははあ、賢婀嬌が言わんとしているのは……」
「はい。胆斗公殿をハーンの代官としてボギノ・ジョルチに置き、ヴァルタラ様をお助けしつつ、西原に睨みを利かせるのです。ハーンは、先に東で神箭将殿を得られました。今また西に胆斗公殿を封ずれば、版図の左右に長大な翼を広げたも同然です」
インジャは瞠目して、
「賢婀嬌は、まさに大鷲のごとき眼を有っている」
アネクを見遣って言うには、
「どうだろう、ナオルと彼女たちにヴァルタラを託してみては?」
ところが眉を顰めて、
「ううん、もちろん賢婀嬌も胆斗公も恃むに足るものであることは、十二分に承知しておりますが……」
インジャが諭して言うには、
「ハトンは太后の言葉を覚えているか。我が母は、私に『自らを顧みて決めよ』とおっしゃった」
「もちろん覚えております」
「思えば、私が母のもとを離れてジェチェン・ハーンに預けられた(注1)のは、僅かに六歳の時分であった」
「…………」
「今となっても決して早すぎたとは思わぬし、おかげで生涯の盟友(※ナオルのこと)とも遇えた。もちろん私の体験がすべてとは言わぬが、ヴァルタラもいつまでもオルドの奥に置いておくわけにいかない。広き草原に出て、良き師の下でさまざまに学び、自ら道を拓くことを知るのも、また肝要なのではないか」
「ハーン……」
「ボギノ・ジョルチは遠方には違いないが、かつてのクル・ジョルチではない。望めばすぐに会いに行ける盟邦だ」
アネクはしばらく考えていたが、やがて言うには、
「解りました。お委せいたします」
モルテは愁眉を開くと、幾度も叩頭して、
「ありがとうございます! 我らは決してハトンを失望させませぬ」
インジャはそれを制して言った。
「ただしこれだけは言っておく。ボギノ・ジョルチに異を唱えるものがあれば、この話はなかったことにする。よくよくみなで諮って決めるのだぞ」
「もちろんでございます。衆議が一致しましたならば、また参ります」
一礼して辞したモルテは、その日のうちに西帰する。それを送りだしたインジャも、すぐに獬豸軍師サノウや百策花セイネンらを召して話し合ったが、くどくどしい話は抜きにする。
秋が近づく。この間にも中原と西原を早馬が往来したほか、ナオルも一旦兵を収めて帰っている。そしてついにモルテが再訪する。言うには、
「クリルタイの開催が決定しました」
あれこれ細目について討議したかと思うと、瞬く間に発つ。またナオルはジョンシ氏を挙げて移動の準備を進めた。百万元帥トオリル、鑑子女テヨナ、飛天熊ノイエンの三名も、中央での官職を解かれて同行することになった。
一日、西を指して出立する。その列の中に、インジャの長子であるウル・ウマルタク・ヴァルタラの小さな姿もあった。
(注1)【ジェチェン・ハーンに預けられた】第 三 回②参照。