第一六八回 ③
インジャ神箭将を恃んで国王の称を許し
アネク賢婀嬌と見えて慮外の籌を聴く
興奮の潮が引いたあとは、主客分かれてお決まりの宴。ヒィとムジカは揃って南面し、左手にアンチャイをはじめとする中原の使臣が、右手にはツジャン以下東原の諸将が並ぶ。インジャの徳を讃え、天地に感謝を捧げておおいに交歓する。
しばらくして、ミヒチはいつ果てるとも知れぬ宴筵をそっと抜け出す。吹き抜ける風に黒髪を靡かせつつおもえらく、
「さて南伯の恐れていたとおりになったが、そもそも南伯さえ叛かなければこうはならなかったろうよ。運命ってのは判らないものだねえ」
頬にかかった髪をそっと指で払って、
「だがハンにとってもナルモントにとってもこれで良かったのさ。神道子言うところの主星を見つけたらしいからね。私が言うのも何だけれども、ハンは実にほっとした様子だったよ」
そろそろ戻ろうかと踵を返したところ、ぬっとゾンゲルが立っている。心臓がどきりと跳ねて、
「またお前はっ! 何でいつもいつも黙って立ってるんだい。おかげで寿命が縮んだよ。まったく役立たずだね!」
散々に悪態を吐きながら、その胸を幾度も撲つ。するとゾンゲルはにんまりと笑いながら、
「いやあ、姐さんの後ろ姿は実に艶やかなもので見惚れてましたよ」
「気色の悪い奴だね。だいたい後ろ姿は、って何だい。まるで前は見られないみたいじゃないか。突っ立ってないで、とっとと中にお入り! 私ももう戻るから」
「はい、姐さん」
ゾンゲルは素直に先に戸張をくぐる。ミヒチもあとに続こうとしたが、ふと振り返って、もう一度眼前に広がる平原を眺める。
「もうすぐ良き雨を得れば、一面が草の海になる。まったく東原は豊かで良いところだよ」
独語して漸く席に戻ったが、この話はここまでとする。
ムジカたちはしばらく滞在して、会盟について算段する。初夏にこれを行うことにして無事に西帰した。復命したムジカは、アンチャイを称えて、
「瓊朱雀がいて実に助かりました。まさに鳥瞰(注1)して、足らざるを補い、過ぎたるを抑え、謙恭にして慎慮あり。もとより卓れていることは知っているつもりでしたが、改めて敬服いたしました」
アンチャイはあわてて小さく首を振ると、
「私など何の役にも立っておりません。何より超世傑の堂々たるさまは、まことに勅使に相応しいもので、東原の諸将もすっかりその威に服したようでした」
インジャは呵々と笑って、
「二人ともご苦労であった。初夏に神箭将に見えるのを楽しみにしておこう」
ムジカ、アンチャイらは一礼して、それぞれの牧地へと帰っていった。会盟のことはサノウとセイネンが担うことにしたが、この話もここまで。
再び東原。ツジャンは神都に戻って、その守備に就く。そこへ三頭、すなわち楚腰公サルチン、蓋天才ゴロ、鉄面牌ヘカトが訪ねてくる。ナルモントがインジャに投じることは先に伝えてある。
迎え入れると、揖拝してサルチンが言うには、
「四周の情勢を鑑みれば、独り神都が立つのは無理がある。やはりジョルチン・ハーンの庇護を得て都城を保つべきだと愚考するが、鳳毛麟角の考えを伺いたい」
ツジャンは驚き、喜んで、
「私ごときの鄙見など何の参考にもならないでしょうが、あえて述べさせていただくならば、まったく楚腰公殿のおっしゃるとおり、それこそ神都長久の策かと存じます」
三人もまたおおいに喜んで、すぐにヘカトを中原へ送ることにした。外卿としてジョルチにあるサノウとハツチを通じて、神都を献上する旨を伝える。
これもまた断る道理もないので、喜んで容れられる。よってサルチンは元首の位を去って、改めてハーンの代官に任じられた。
とはいえ変わったのはまさに名ばかり、当然のようにこれまでどおり自治を許される。のちに銀貨の鋳造権などを与えられて、その繁栄は往時に迫ることとなる。
神都も初夏の会盟に参加して、インジャに忠誠を誓うことになった。
ナルモントと神都がインジャの傘下に加わったことは、三色道人ゴルバン・ヂスンからの早馬によって四頭豹に伝えられた。四頭豹は珍しく首を傾げて、
「この私でも予測を外すことがあるとは。神都はともかく、あの神箭将というものは決して人に膝を屈することはないと看ていたが……」
しばらく黙考していたが、やがて言うには、
「まあよい、奴は隻眼傑と同類、いつまでも人の下風に立つことはできまい。インジャはかえって身中に虫を飼ったも同然、あわてることはあるまい」
引き続き注視するよう命じると再び沈思したが、これもひとまず措く。
うち続く朗報に沸くジョルチ部に、今度は西原から客人が至る。ボギノ・ジョルチ部の賢婀嬌モルテである。王大母ガラコの付託を得て、次のカンについて諮るべく中原を訪れたもの。やはりおおいに歓待される。
一日、モルテは、望んで鉄鞭のアネクに見える。ほかにあるのは侍女たる鑑子女テヨナと小白圭シズハン、それから神餐手アスクワと黒曜姫シャイカのみ。インジャもサノウもセイネンもない。跪拝して言うには、
「ハトンにおかれましてはご機嫌いかがでしょう。お身体はよろしいですか」
というのも、第二子を懐妊してまもなく臨月を迎えるからである。
「ええ、とってもよろしくてよ。名高い賢婀嬌に会えて嬉しく思います」
「ありがとうございます。こうして参ったのはほかでもありません。実はハトンに我が部族を救っていただきたいのです」
「私に?」
「はい」
(注1)【鳥瞰】鳥のように高いところから広範囲を見ること。転じて、全体を大きく見渡すこと。