第一六八回 ②
インジャ神箭将を恃んで国王の称を許し
アネク賢婀嬌と見えて慮外の籌を聴く
ミヒチとショルコウは盛大な、ともすれば伏して帰順を請うた身であることを忘れそうなほどの歓待を受けた。
それは彼女たちの主君、すなわちヒィ・チノやケルンの面目をもおおいに施した。インジャが二人を殊に重んじて、心奥から喜んでいることを僚友たちに知らしめたからである。
そしてついに帰途に就く。同行して河東に赴く勅使には、何と新ヤクマン部のハンたる超世傑ムジカが志願する。
あまりに貴要(注1)な人物であるため、サノウやセイネンなどはすぐには賛成しない。しかし温良恭倹(注2)なムジカにしては珍しく一歩も退かない。言うには、
「神箭将は我が義兄ですが、久しくお目にかかっておりません。どうか勅使にしてください。また私情は別として、これでも私はハンと称する身。そうしたものが行くことによって、ハーンが東原を軽んじていないことは下々のものにまで伝わるでしょう」
それもまた道理であったので、インジャは頷いて、
「その言や善し。では超世傑が行け。黒鉄牛、赫大虫、奔雷矩を連れていけ。白夜叉たちを警護して無事に送り届け、また私に代わって神箭将らの帰投を容れ、我が言葉をしかと伝えよ」
ムジカは大喜びで拝命する。同じくヒィ・チノの盟友たるギィは羨ましがったが、顧みて言うには、
「獅子は先に東原で、神箭将とともに南北に転戦したではないか。ここは譲ってくれ。せめてマシゲルの赫大虫らを随員に加えたのはハーンのお心遣いだ」
「なるほど、それもそうだ。神箭将によろしく伝えてくれ」
ギィは得心して退いたが、
「ひとつよろしいですか」
誰かといえば小白圭シズハン。
「どうした」
「勅使の中にジョルチのものが一人もおりませんが……」
インジャは虚を衝かれた様子だったが、やがて破顔一笑、
「気づかなかった。では小白圭。そういうことならお前が……」
一座を見回しながら言いかけたところで、はたと膝を打って、
「瓊朱雀! 君こそまことに相応しい。副使として超世傑を輔けてくれるか」
名指されたアンチャイは瞠目して、
「私でございますか」
「然り。君はジョルチのベルダイ氏の出自にて今はマシゲルのハトン。またかつて超世傑のもとにあり、神箭将とも面識がある。これ以上の適任はない。それを最初から思いつかぬとは、かえってどうかしている」
慧敏なアンチャイは即座に了承して言った。
「承知しました。及ばずながらハーンと我が夫に代わって東原に赴き、超世傑殿を輔けましょう」
かくして各自旅装を整え、三千騎もの兵衆を率いて出立することになった。ミヒチが最後の挨拶に訪れたところで、インジャは例の三巻の文書を返そうとしたが、固辞して言うには、
「それは手許にお納めください。封も開けぬまま持ち帰ったのではハンに叱られてしまいます」
「そうか。ならば次に神箭将に会ったときに直に返すことにしよう」
「ぜひそうしてくださいませ」
これでやっと安堵して、重ねて丁重に礼を述べて辞去する。草原に出た一行は、堂々と勅使を示す旗を掲げて進む。ミヒチはゾンゲルを顧みて、
「帰り道こそ不安だったのだけれども、これなら四頭豹も手が出せないね」
「はい、姐さん」
さすがにムジカの行軍に隙はなく、万事行き届いて遺漏がない。ミヒチらは心安らかにアンチャイやハリンと談笑しながら、悠然と河東を指す。
北道に入り、まずはケルン・カンを訪ねる。ムジカはひと目見るや、この白心の主を気に入って、
「北原は金杭星があれば心配ない。ハーンは良き僚友を得た」
そう絶賛する。ジョルチン・ハーンの詔勅を伝えると、ショルコウと別れていよいよ東原へ渡る。ゾンゲルを先に走らせて到着を告げさせれば、オルドにて歓喜とともに迎えられる。
ヒィ・チノとムジカ、アンチャイは、久しぶりの再会を喜び合う。互いの苦難を思い返して、万感胸に迫る。いずれも四頭豹に苦杯を嘗めさせられたもの同士、またインジャによって救われたことも同じである。
改めて威儀を整えて一堂に会し、詔勅を授ける。ムジカがこれを読み上げ、ヒィは平伏して聴く。
インジャが挙げた諸々の条件、すなわち東原統治の委任、東方への版図拡大の権限、すべての僚友の筆頭とすること、ふたつの称号の付与、戦場においてハーンの代理とすることなどを聞くうちに、その顔は驚きに満ちる。それらは条件と云うより、むしろ特権とすべきことども。
「……以上である。何か申すことはあるか」
ムジカに問われても、すぐには答えられぬほど。知らず身が震えはじめたが、それが驚愕のためか、歓喜のためか、はたまた畏懼か、あるいはそのすべてか判らぬ有様。
「神箭将殿」
アンチャイがそっと声をかければ、はっと我に返って、
「新参の愚物にもかかわらず過分の厚遇を賜り、ありがたき幸せ。どうして不服を申しましょう。テンゲリに誓って生涯をハーンのために捧げます」
どうなることかと見守っていた諸将の心にも、安堵やら高揚やらさまざまな感情がひとときに押し寄せる。誰からともなく、
「万歳!」
声が挙がって、瞬く間にオルドを満たす。
(注1)【貴要】身分が高く、重要な地位にあること。またはその人。
(注2)【温良恭倹】穏やかで素直、人に対しては恭しく、慎み深いこと。