第一六八回 ①
インジャ神箭将を恃んで国王の称を許し
アネク賢婀嬌と見えて慮外の籌を聴く
さて、白夜叉ミヒチは神箭将ヒィ・チノに命じられて、義君インジャに投ずる旨を伝えるべく中原に赴いた。
もちろんインジャは歓迎したが、例によって獬豸軍師サノウがあれこれと言い立てて再考を促す。しかしそれもすべては国家のため、ミヒチが先にヒィ・チノと交わした約定を明かせば、
「神箭将の言葉には誠意があります。言うべきことはありません」
そう言って、漸く退く。かくしてついにナルモントの好漢たちも黄金の僚友に名を連ねることになった。居並ぶものは、英傑と名高いヒィ・チノの帰投を喜んで、一斉に快哉を叫ぶ。
昂奮の渦の中にあって、インジャはふとミヒチの後方に控える一個の女性に目を留める。呼びかけて言うには、
「そこにあるのはナルモントの宝と称される司命娘子ではないか」
「覚えておいででしたか。まったくの虚名にて恥ずかしいかぎりですが、そのように呼ぶものもあるようです」
ショルコウはやや面を伏せつつ、遜って答える。
「たしか北伯たる金杭星の正妻であったな」
「はい。しかし我が夫ケルンはもう北伯ではありません」
訝るインジャに、ヒィ・チノが森の民の地位を慮って任を解いた経緯を語る。インジャはおおいに感心して、
「さすがは神箭将。何と行き届いたものであることか」
百策花セイネンが口を開いて、
「では司命娘子は、北原からの使臣として参ったのか」
「はい。我らもまた神箭将に倣って、ハーンの足下に跪かんとて参りました。どうか森の民をお見捨てにならぬよう、お願い申し上げます」
断る道理があるはずもなく、たちどころに許される。ケルンもショルコウもともにその名は轟いていたので、やはり誰もが喜ぶ。
平和裡に中原、東原、北原の一統が成ったことを祝って、あとはお決まりの宴。神餐手アスクワの料理が運ばれて、インジャがひと声かければたちまち流觴飛杯、語り、笑い、歌って、心ゆくまで楽しむ。
また四方に早馬が放たれて、神箭将と金杭星の帰投が伝えられる。これを聞いたものは等しく驚き、かつそれ以上に喜んだ。
殊に「チェウゲン・チラウンの盟(注1)」によって、もとよりヒィ・チノの盟友だった超世傑ムジカと獅子ギィの喜びはひととおりではなく、自ら奉祝せんとて直ちにオルドに向かった。
こうして新たな好漢が到着するたびに宴を開いて、友誼を深めたが、もちろん飲んでばかりいたわけではない。やはりサノウが進言して、ヒィ・チノの待遇や序列について定める。インジャが言うには、
「神箭将はまことの英傑。ほかの僚友と同列に扱うわけにはいかぬ。カオロン河より東はことごとくこれに委ね、騎馬にて征けるかぎりの地はすべてその牧地としようぞ。席次においては僚友の筆頭とし、特に『国王』、『万人長の中の万人長』と称することを許す。よって戦地に私がなく神箭将があるときは、みなこれに従え」
破格の厚遇にさすがのミヒチも開いた口が塞がらない。我に返ってあたふたと礼を述べつつ固辞せんとしたが、
「ならぬ。神箭将が重責を免れようとするならば、帰投は認めぬ」
「しかしそれでは……」
インジャは莞爾と笑って、
「おや、話が違うな。道理のあるかぎり何でも可とするよう、神箭将と約してきたのではなかったか」
「それはそうなのですが、まさかこのような。かえって道理を失うのではありませぬか」
「そうは思わぬ。神箭将は誰よりも広大な版図を有し、最も多くの兵を養い、そもそも超世傑や獅子の義兄である。ならば責務も序列も彼らより上位でなければおかしい。となれば自ずとそうなるのだ」
ミヒチは助けを求めて左右を見渡し、サノウと目が合った。ああ、この男がいた、かの狷介な軍師ならばと思った瞬間、何とそっと目を逸らされる。
どうやらインジャはこのことを卒かに言いだしたものではなく、事前にサノウらと諮っていたに違いない。ならば「可」と答えなければ、道理を失うのはむしろミヒチのほうである。
「承知しました。帰って我がハンにそう申し伝えます」
またインジャはショルコウに言うには、
「金杭星には北原の統治を託す。カンとして自由にこれを治めよ」
「承知」
さらに告げて言うには、
「北原は中原よりも東原と縁が深い。よってこれまでどおり、ことがあればまずは神箭将を恃め。いちいち私に諮らずともよい」
たちまちその意図を察したショルコウは瞠目して、
「あ、それでは……」
インジャは大きく頷くと、
「そのほうが金杭星もはたらきやすいだろう。神箭将の配慮は徳とするが、森の民は森の民の望むようにせよ」
ショルコウは平伏して、
「ありがとうございます! 金杭星もきっと喜びます」
居並ぶ好漢たちは、万事収まるところに収まっていくのを見るうちに、次第に心が昂揚する。ついに呑天虎コヤンサンが割れんばかりの大声で、
「万歳!」
そう叫んだのを契機に次々と唱和に及んだが、くどくどしい話は抜きにする。
(注1)【チェウゲン・チラウンの盟】チルゲイの斡旋によって、ヒィ・チノ、ムジカ、ギィの三人は盟友となった。第四 一回②参照。