第一六七回 ④
ヒィ両個の女傑に託して忠志を陳べ
ミヒチ三巻の密書を奉じて狐疑を払う
ミヒチの口上を聞いたインジャは顧みて、
「軍師、そうなのか」
サノウはすぐには応えず、険しい顔で独語して、
「……まったくよく喋る女だ」
インジャは呵々と笑って、
「さすがの軍師も白夜叉にはかなわないと見える。それだけではない。私もよもや器量を問われようとは思っていなかった。よろしい、よくよく自戒して神箭将を失望させぬよう努めよう」
ミヒチはあわてて平伏すると、
「我が罪は万死に値します。いかようにもご処断くださいませ」
「いや、『四方に使して君命を辱めず』とはこのことだ。今後はときどきでかまわぬ、私のためにもその才覚を揮ってもらいたい」
「もったいないお言葉。身の縮む思いです」
居並ぶものは安堵の息を漏らしたが、再びサノウが口を開く。
「ハーン。先のようなことを述べたのは、もちろん白夜叉が言うように、神箭将を養うことが容易ではないことをお伝えする意図もありました。しかし危惧を抱いていることもまた真なのです」
「危惧とは?」
「ナルモントはつい先日まで、ジョルチを凌駕する勢力を誇っておりました。すなわち『小をもって大を養う』殆うさを孕んでいるということです。俚諺にも『テンゲリに二日なく、エトゥゲンに二王なし』と謂います。ハーンに比肩するものを何の掣肘もなく容れることは、国家の規律を混乱させる恐れがありますぞ」
「ならばどうせよと言うのだ」
インジャが眉を顰めて問えば、
「まことにハーンの狗となる心があるのか、幾つか条件を出して測るべきです」
「条件?」
その表情はますます険しくなる。かまわず答えて、
「はい。一に、直に見えて神箭将自ら臣下の礼を示すこと。二に、版図を分かって献ずること。三に、その地をハーンの僚友に与えること。四に、毎年オルドに家畜百頭を貢納すること。五に……」
インジャはあわてて押し止めて、
「待て、軍師。それではまるで神箭将を信じていないようではないか。どれひとつとっても私自身が肯じることができぬ」
「しかし狼の子を養うとは、そういうことでございます」
黙って主従のやりとりを聞いていたミヒチが言うには、
「ハーン、ご懸念には及びません。いずれも『可』でございます。事前に我がハンより、どのような条件を示されても、道理に外れぬかぎりすべて承諾してよいと仰せつかっております」
これにはサノウも唖然とする。ミヒチは莞爾と笑って、
「またハンはおっしゃいました。『降るとはそういうことだ。あれこれ不平を言うなら、そもそも降るなどと言わない』と」
インジャは大きく頷くと、嬉しそうに言うには、
「どうやら東原のものはみな先知に卓れているようだ。このことあるをすでに予測していたらしいぞ」
そこで鑑子女テヨナが進み出て、優しくサノウに語りかける。
「軍師、もうよろしいのでは」
「ううむ……」
また飛天熊ノイエンが巨体を揺すって笑いながら、
「軍師はいつも難しいことを言いだすが、それもこれも常にハーンを思ってのこと。我らのみならず客人にも看破されたことだし、退きどきかと」
百策花セイネンが加わって、
「軍師ともあろうものが、退きどきを誤るわけがなかろう」
みなどっと笑えば、サノウはむっとして押し黙る。しかしやがて言うには、
「神箭将の言葉には誠意があります。もはや言うべきことはありません」
期せずして歓声が挙がる。そこでインジャがミヒチに言うには、
「いろいろと失礼をした。神箭将に伝えてくれ。天下の英傑を我らは歓迎する、ともにテンゲリに替わって道を行おう、と」
「承知しました。どうやら大任を果たせたようでほっとしています」
「先に軍師はあれこれと条件を挙げたが、もちろん何も要らぬ。ただ近く会って酒杯を交わし、おおいに語り合おうではないか。条件といえばそれだけだ」
「畏れ多いことでございます。ナルモントの人衆は、ハーンの聖徳に感激するでしょう」
「今となれば白夜叉も我が僚友。私の至らぬところがあれば、遠慮なく申せ。それがジョルチの気風だ」
ミヒチは揖拝して、
「では卒爾ながらひとつ。ハーンにではなく、軍師に」
サノウはぎょっとして身構える。ミヒチがすました顔で言うには、
「先から軍師は殊の外、狼の子を警戒しておいでですが、ジョルチにはすでに獅子も狼も虎もあるではありませんか。先には竜ですら加えているのに、今さらおかしなことを言わないでください」
たしかに黄金の僚友を覩れば、獅子ギィ、霹靂狼トシ・チノ、呑天虎コヤンサン、赫大虫(注1)ハリン、皁矮虎マクベンがすでにあり、さらには盤天竜ハレルヤと盟を結んでいる。
ここに新たに飛虎(注2)やら夜叉やらが並んだとて、何を恐れることがあろう。まさしく大鵬の翼下に収まらぬものはなく、日輪の恩恵に浴さぬものもないといったところ。
かくしてナルモント部は挙げてインジャに仕えることとなった。さてここにもう一人、静かに控えている女丈夫があるのを忘れてはならない。果たして、司命娘子は何と言ったか。それは次回で。
(注1)【赫大虫】大虫は虎の意。
(注2)【飛虎】ヒィ・チノは「神箭将」のほかに「飛虎将」とも称される。