第一六七回 ③
ヒィ両個の女傑に託して忠志を陳べ
ミヒチ三巻の密書を奉じて狐疑を払う
インジャはミヒチの言葉について考える風だったが、やがて言うには、
「つまり神箭将は、光都の件を憂えて何か決断した、ということかな?」
「はい、そのとおりでございます。今日はそれについてジョルチン・ハーンにお伝えするべく参ったのです」
「私と神箭将は盟友の誓いを交わした義兄弟、どんなことでも助力は惜しまぬ。何でも申せ」
ミヒチは莞爾と笑うと、
「それを聞いて安堵いたしました。好漢に二言はないのですよ」
インジャもまた笑って、
「もちろん、それでこそ好漢というものだ」
「ああ、失礼なことを申し上げました」
非礼を詫びると、傍らのゾンゲルを促して件の文書を奉呈させる。締めて三巻、紐で括られた上に紙を貼って封緘されている。小白圭シズハンが受け取って、インジャのもとへ運ぶ。
「これは?」
問えば答えて言うには、
「我がハンより、ジョルチン・ハーンへの贈物にございます」
「何と。厳重に封をされているようだが……」
「はい。我が部族の機密が、ことごとく収められておりますゆえ」
「機密?」
「はい。家畜、人衆、兵馬など、ナルモントの有するあらゆるものの数が記されております」
インジャはおおいに驚いて、
「また白夜叉が戯言を申しているのであろう。そのようなものを軽々に人に見せてよいはずがない」
「戯言ではございませぬ」
はっとして見遣れば、いつの間にやら笑みを収めて正視している。
「どういうことか」
インジャも居住まいを正す。ミヒチは叩頭してついに言った。
「我がハンは、部族を挙げてジョルチン・ハーンにお仕えすることを決断なさいました。我らの窮状を憐れと思し召すならば、どうか無下に退けられませぬよう、伏して請願奉る次第にございます」
居並ぶもので驚かぬものはなく、すぐには誰も言葉が出ない。またもミヒチが口を開いて、
「そこなる三巻の文書は、我がハンの忠誠の証。ナルモントのすべてをハーンに献上いたしますゆえ、どうぞ中をお検めください」
インジャは漸く我に返って、
「いや、それには及ばぬ。このまま神箭将にお返ししよう」
ミヒチは細い目を瞠って、
「それは我らの帰投をお認めにならないということでしょうか。我がハンはハーンの狗となって草原を駆け、剣となって敵人を伐ち、盾となってハーンを護る所存です。お疑いのようでしたら……」
「そうではない」
「ではなぜ……」
「神箭将と志をともにできるとは望外の喜び。これまでどおり東原を統べて力を発揮してもらいたい」
みるみる愁眉を開いて、
「ああ、ありがとうございます。それでは……」
「然り。天下に高名な神箭将をどうして退けることがあろう。本来ならばこちらから礼を尽くしてお迎えせねばならぬところ。よって贈物など無用、その心だけで充分に過ぎる」
するとサノウがそっと手を挙げて発言を求める。許せば言うには、
「お待ちください。この件についてはよくよく考えて回答なさるべきです」
「なぜか」
「ナルモントは東の大族、その勢は必ずしもジョルチに劣るものではありません。また神箭将は紛れもなく真の英傑。その心性を観るに、人の下風に立つことを潔しとしないように見えます」
ミヒチは僅かに眉を顰めたが、あわててそれを遮ったりはしない。何となれば、サノウが難色を示すことは想定の内であったし、何よりその言うことも偏見とは言いきれなかったからである。
サノウはかまわず続けて、
「古より『狼子に野心あり(注1)』と謂います。かつて神箭将は隻眼傑を登用するとき、『己とよく似ている』とて喜んだとか(注2)。その隻眼傑が果たして何を為したか、よもや忘れたわけではありますまい」
あまりに辛辣な言葉に、たまらず声を挙げたのは何とインジャ。
「軍師、客人に対して無礼であろう」
そしてそれを制したのは、当のミヒチ。何と言ったかと云えば、
「いえ、軍師のおっしゃるとおりです。懸念を表されるのはむしろ当然、まことにハーンを慮ってのこと。私は何も気にいたしません」
「しかし……」
「そして我がハンもそのような狐疑(注3)の言説に惑わされたりはいたしません。それこそが神箭将と隻眼傑の最も大きな差異。我がハンには確かな自負があり、屈折するところがありません。そのハンが熟慮の末に投ずると決めたのです。それを容れるかどうかは、むしろハーンの器量次第。軍師は決して我がハンの帰投を拒んでいるのではなく、そのことをハーンにお伝えしたかったのだと拝察します」
(注1)【狼子に野心あり】狼の子は野性を忘れないため、たとえ飼っても人に馴れることがないという意味。
(注2)【隻眼傑を登用するとき……】第九 〇回③参照。
(注3)【狐疑】疑い深いこと。