第一六七回 ②
ヒィ両個の女傑に託して忠志を陳べ
ミヒチ三巻の密書を奉じて狐疑を払う
中原に遣っていたキセイが、北原を経て戻ってきた。聞けば、森の民も時を同じくしてジョルチに投じるとのこと。どうやら先にケルンが配った義君からの贈物(注1)が奏功したらしい。独りとて異を唱えるものはなかった。
「北伯が言うには、白夜叉が中原に向かうときに司命娘子を同行させたいとのことでした」
「よい。ただしもう金杭星は北伯ではないぞ」
「ああ、うっかりしておりました」
ヒィはからからと笑って、
「それより、義君はどうであった」
「もちろん詳細については伏せましたが、白夜叉の来訪を心から歓迎しているようでした」
「それもよい。ご苦労であった。下がって休め」
ひと月も過ぎるころにはワドチャに命じた文書も揃ったので、いよいよミヒチを派遣することになった。ヒィ・チノは旅装を整えて挨拶に訪れたミヒチに言った。
「部族の安危はお前の双肩にかかっている。嘱むぞ」
「はい。あまり脅かさないでくださいな。行ってまいります」
例によって文書の類はゾンゲルにすべて持たせる。百騎ほども従えて、二人はオルドをあとにした。そこからは飽けば喰らい、渇けば飲み、夜休んで、朝発つお決まりの行程。あっと言う間にズイエ河を渡って、鍾都にてショルコウと合流する。
見ればショルコウは、久々に草原の民の装い。笑って言うには、
「森の民の正装でもよかったんだけど、中原では目立ちすぎるからね」
心配で見送りにたケルンが、ますます憂えた様子で、
「ただでさえお前は人目を惹きやすいのだ。ああ、やはり俺もついていこうか。中原の男どもがお前を見て、妙な気を起こしはしないだろうか」
ショルコウは僅かに赤面して、
「くだらないことを言わないでください。大事な責務を負って行くのですよ。ああ、恥ずかしい」
ミヒチとゾンゲルは顔を見合わせて笑う。
ともかくケルンと別れると、轡を並べて北道に入った。オンゴド・アウラ平原(注2)を越えれば、そこから先はインジャの勢力圏。
駅馬吏が三人が来たことを報せるために速足にて去る。ミヒチたちは焦ることなく駅站を辿っていく。道中は格別のこともなく再び河を渡って、いよいよ中原へと至る。
そこで待っていたのは、おなじみの金写駱カナッサと黒鉄牛バラウンジャルガル。お互い大喜びで久闊を叙する。
「姐さん、今回はいかなる用件で?」
バラウンが何げなく問うたところ、
「機密だよ。何だい、お前はジョルチン・ハーンよりも先にそれを知ろうって言うのかい?」
はぐらかせば、あわてて言うには、
「いえ、とんでもない! 姐さんは恐ろしいことを言いなさる」
「たまにしか喋らないのに、いちいち迂闊なことを言うんじゃないよ」
手厳しく窘められたバラウンは、口を尖らせて黙りこむ。とはいえかつて知ったる気安い面々、一行は暢気に道を進む。
しかしミヒチは、内心ではおおいに警戒していた。密かにゾンゲルに言うには、
「いいかい、私らの責務は重いよ。四頭豹の刺客の手になどかかったら、ナルモントの命数は竭きるってもんだ」
「うひぃ」
「殊にお前に預けた文書には部族の機密が詰まってるんだから、決して失くしたり奪われたりしたらいけないよ」
「はい、姐さん」
青い顔で頷く。
幸いにして何ごともなくオルドへ至れば、すぐに謁見を許される。すでに獬豸軍師サノウや百策花セイネンといった帷幄のセチェンたちが、うち揃って客人を迎える。ミヒチは拝礼して進み出ると言うには、
「お久しゅうございます。ハトンがご懐妊なされたそうで、まことにおめでとうございます」
インジャは照れながら頷いて、
「うむ。白夜叉も息災そうで何よりだ。東のハーンも変わりないか」
答えて何と言ったかと云えば、
「よくぞ訊いてくださいました。畏れながら我がハンについて申し上げたいことがございます」
このときミヒチは、ヒィ・チノのことを「ハーン」とはっきり言わずに、やや縮めて「ハン(注3)」に近い発音で呼んだ。
それはさておき、居並ぶものは思いも寄らない返答に虚を衝かれる。そこで続けて言うには、
「ひとつには、我がハンはすこぶる壮健にて気力も充実しており、以前と何ら変わることはありません」
「おお、そうか」
「しかしまたひとつには、我がハンはこの冬、臣下にひと言も口を利くことなく、独り沈思黙考しておりました。かつてこのようなことは一度たりともありません」
インジャは途端に気遣わしげな表情になり、
「それは光都の件を憂えてか」
「さすがはジョルチン・ハーン、我がハンをよくご存知でいらっしゃいます。然り、ハンが次に口を開いたときには、これまで考えもしなかったであろうことをお決めになって、我々群臣をおおいに驚かせました。この点においては、我がハンはすっかり変わられたと云うこともできましょう」
この白面の女傑がいったい何を言わんとしているのか、ジョルチの好漢たちは量りかねて、すっかり惑う様子。
(注1)【義君からの贈物】第一四三回④参照。
(注2)【オンゴド・アウラ平原】インジャとヒィ・チノが会盟を行った地。第一四七回①参照。
(注3)【ハン】ハーンがより上位のハーンに仕えるとき、これに敬意を表して自らの称号を短く「ハン」と発音する慣習を踏まえたもの。例えばギィはアルスラン・ハン、ムジカはクルゥド・ハンと号している。