第一六六回 ③
ガラコ更に官を加えて賢婀嬌の言を容れ
ヒィ遂に意を決して金杭星の任を解く
するとミヒチは首を傾げて、
「テンゲリに、運命……。何のことでしょう?」
ヒィは尋ねられてもすぐには答えず、これを睨みつけている。ミヒチがすました顔で次の言葉を待っていると、
「白夜叉なら言わずとも解ると思ったが」
答えて言うには、
「宸慮(注1)を推し量るなんて畏れ多いこと、するもんですか。殊に部族の行くべき道についてのご聖断ともなれば、どうして迂闊なことが言えるでしょう」
「何だ、やはり察しているではないか」
ヒィは眉を顰めたが、ミヒチは不満も露に抗議して、
「いえ、ハーンはそうおっしゃいますが、それほどの大事を私などが口にしてよいわけがありません。どこで誰が聞いているか知れやしない」
「わかった、わかった。で、お前はどう思う?」
「どう思うもこう思うもありません。ハーンが決めたことに従うだけです。だいたい私のような女に諮るべきことではありません。困らせないでくださいな」
「何を困ることがある」
「たとえ反対したところで、ハーンの御心は覆らないでしょう。となると、私は単に叡慮に逆らっただけになります」
ヒィはますます眉間に皺を寄せて、
「反対なのか」
「知りませんよ。私はまだ何も聞いちゃいませんからね。それに賛成したらしたで、ハーンは女の意見を容れて大事を決したなどとあらぬ風評が立てば、どんな怨みを買うか判らない。どちらに転んでも得することなんかひとつもありません。だから困るんです」
ヒィは、ぽつりと呟いて、
「相変わらず小賢しい女だ」
聞き逃すはずもなく、すかさず答えて、
「賢明っておっしゃってください」
「それによく喋る」
「ハーンが、らしくもなく道理に合わぬことをおっしゃるからです」
「道理に合わぬとは?」
するとミヒチは居住まいを正して、
「熟慮なさったんでしょう? それで決められたのなら、逡巡なさってはいけません。大事は一気呵成に成し遂げるべきであって、このように人の顔色を窺いながらでは、どこから破れるか知れませんよ。そんなことは、ハーンこそよくご存知でしょうに」
「……そうだな」
ミヒチは俄かに謹厳な様子で拝礼すると、
「今あるものは、昨今の動乱を経てなお留まった真の忠臣ばかりです。ハーンがまことに部族を思って決めたことであれば、どうして異を唱えましょう。何よりひたすら赤心をもって行うことが肝要です」
「白夜叉の言うとおりだ。それに俺は、俺の決断そのものは誤っていないと確信している」
「ならば何を躊躇しておいでです! このようにこそこそしていては信を得ることはできません。小賢しいのはハーンのほうでございます」
これを聞いたヒィは、むしろ呆れた調子で言うには、
「……お前は賢いが、ひと言多い」
「ハーンのようにまるで言葉が足りないことに比べたら……」
言い募らんとするのをみなまで言わせず、手を振って制すると、
「ああ、もうよい。もはや迷うまい。実は北伯夫妻を呼んである。これと会ったのち、みなを集めて信を問う」
「存分になされませ」
「まったくお前という奴は……。いや、礼を言わねばなるまいな」
「よしてください、気味が悪い」
ミヒチは一礼するやさっさと退出したが、この話はここまでとする。
北伯たる金杭星ケルン・カンと司命娘子ショルコウがオルドに到着したのは、さらに数日後のことである。夫婦並んで跪拝すると、ケルンが言うには、
「我がハーンよ。お召しに応じて、急ぎ参りましたぞ」
「二人とも息災のようで何よりだ。今日呼んだのはほかでもない。実はな、俺はよくよく考えてある決断をした」
ケルンはきょとんとしているが、ショルコウはぴくりと肩を震わせる。しかし面を伏せたまま何も言わない。
「……そもそも森の民は独立した諸侯であって、ナルモントに属するものではない。縁あって金杭星個人が俺に投じたのをよいことに、北伯に任じて力を借りたが、本来は対等の盟邦である」
相変わらずケルンはその意図が解らずにぼんやり聞いている。ヒィ・チノはかまわず言うには、
「そこで、このたびの決断に伴って、お前の北伯の任を解くことにした」
ケルンは突然の通達に心の底から驚いて、跳び上がって言うには、
「お、お、お待ちください! 俺は何か過ちを犯しましたか!? そんな、酷い! 得心できませぬ。畏れながら、ハーンはどうかされてしまったのでは……」
ショルコウがそっと手を伸ばして袖を引く。顧みれば小さく首を振るので、ぶつぶつと非礼を詫びながら再び跪く。ヒィは呵々と笑って、
「あわてずに最後まで聴け。そうすれば、俺がどれほどお前とお前の妻を重んじているか、知ることができよう」
「はあ、そうでございますか」
眉根を寄せて、まだ怪しむ様子。ヒィは笑みを湛えたままで言った。
「これはまだ誰にも言っていない。お前たちが初めて聞くのだぞ」
「はあ……」
「俺はジョルチの義君に臣従することにした」
「はあ……。は、はぁっ!?」
先の驚きを遙かに凌駕する衝撃を受けたケルンは、口を開けたまま跳び上がることすらできない。
(注1)【宸慮】天子の心、考え。