第一六六回 ②
ガラコ更に官を加えて賢婀嬌の言を容れ
ヒィ遂に意を決して金杭星の任を解く
エジシに請われて、ガラコは摂政を兼ねることになった。次のカンが立つまでのほんの僅かな間とて引き受けたものだったが、実にこの先何年も摂政であり続けることになろうとは予想だにしていない。そうと知っていたら、決して承知しなかっただろう。
あるとき、モルテが言うには、
「カンについて、考えていることがあります」
ガラコは愁眉を開いて、
「さすがは賢婀嬌だ。良い案を思いついたみたいだね」
するとなぜか浮かぬ顔で答えて言うには、
「はい。しかしながら、今はまだ何とも言えないのです」
「どうして?」
やや言い淀んで、
「……そのときが来なければ、まことにそうできるか、またたとえ思うとおりになったとして、確かにそうさせていただけるか判らないからです」
ガラコは虚を衝かれて首を傾げると、
「……私の頭がどうかしちまったのかねえ。賢婀嬌が何を言ってるのか、さっぱり解らないよ」
「申し訳ありません。はっきりしたことは何も申し上げられないのです」
「あっはっは。何だい、それは! いつになればはっきりするって言うんだい?」
思わず笑いだしたガラコに、深々と頭を下げて言うには、
「夏には、私の考えが実現できるかどうか、検討を始められるはずです」
「はあ、夏ねえ……。まだ検討もままならないとは、賢婀嬌にしてはずいぶん珍妙なことを言うもんだ。いいさ、いつでも賢婀嬌は正しい。夏まで待つよ」
「ありがとうございます。それに関して、もうひとつお願いがございます」
「何でも許す。この件についてはもう賢婀嬌に委せるつもりだからね」
「私をジョルチに遣ってください。次のカンについて、義君や獬豸軍師の意向を確かめてまいります」
ガラコは眉をぴくりと動かすと、
「胆斗公によれば、義君はカンの人選に容喙しないようにとわざわざ戒めたって話じゃないか。こちらから何を確かめようって言うのさ」
問われたモルテはしばらく無言だったが、やがて答えて言うには、
「……どうしても必要なのです」
「ああ、承知したよ。今はまだ聞くまい。行っておいで。その前に太師と胆斗公には挨拶しとくんだよ」
「はい、そのつもりです」
一礼してモルテは退出したが、この話はここまでとする。
変事が起こるたびに右往左往するボギノ・ジョルチ部に比べて、東原のナルモント部はむしろ一歩も動けずにいた。
版図の南半をゴルバン・ヂスンに抑えられて、逼塞を余儀なくされる。彼我の兵力差は二倍どころか三倍に達しようとしていた。恃みのインジャも再び大軍を送ることはすぐには難しい。
ハーンたる神箭将ヒィ・チノは冬の間、誰も近づけずに独り黙考していた。飛虎将とも称される果断な彼にしては珍しく、部族の危機に対して何の命令も出さずに無言を貫く。
正月の祝いに諸将が集まった席でも、ほぼひと言も発しない。おかげでみな早々に退散してしまった。
春が近づいたある日、東ヤクマン部を内偵していた神行公キセイが復命する。ひととおり聞いたヒィは、
「やむなし。北伯と司命娘子をここへ」
短く命じてキセイを送りだすと、病大牛ゾンゲルに、
「お前はオラザに行って、白夜叉を」
「はい!」
あわてて飛び出す。
数日経って先に着いたのはミヒチ。揖拝して言葉を待つ。しかしヒィは何も言わない。いつもならば遠慮なく軽口を叩くミヒチも、主君のただならぬ気配を察して黙っている。
ヒィは、まるでミヒチの姿など目に入っていないかのようだったが、しばらくしてついに言うには、
「白夜叉。またお前に中原へ行ってもらうことになるだろう」
「中原へ……」
「そうだ」
また口を噤んでしまう。ミヒチのほうは久々にヒィの声を聞いて、やや安心する。そこで自ら尋ねて言うには、
「行くのはかまいませんが、どのような用件か伺ってもよろしいですか」
「…………」
ミヒチは黙りこんでいるヒィの顔を観て思わず目を瞠る。そこからは憤怒、悲嘆、悔恨、自虐、逡巡、恐懼に加えて、僅かに安堵や喜悦すら看て取れる。つい口を衝いて、
「……呆れました」
言えば、ヒィは驚いて、
「何だと? いったい何を呆れる」
はっとして言うには、
「失礼しました。人というのはそんな込み入った顔ができるものなのかと、うっかり感心してしまいました」
ヒィは眉を顰めて、
「何だ、それは。まじめに考えていた俺が阿呆みたいだ」
「では、何かお決めになったのですね」
「まあな。みなに諮る前に、白夜叉の考えを聞いておきたい」
ミヒチは内心、聞こうが聞くまいが一度決めたことを覆す方ではないでしょうと思ったが、もちろん口には出さない。神妙に待っていると、やっと意を決して、
「……俺はテンゲリの、運命の導きに順おう、と決めた」
そう言ってミヒチの顔をじっと窺う。