第一 七回 ② <トシ・チノ登場>
インジャ死地を逃れ至りて衆星に見え
ギィ武勲を顕し果たして野人を奔らす
さて、早速イタノウの軍勢が動員される。その数は千騎。アネクはまだ騎馬がかなう状態ではなかったので、車に乗せて中軍がこれを守護した。
「正面から出ると右派の軍勢に出遭うかもしれません。裏側から下りましょう。そして大きく迂回して北へ向かえば敵人の目を欺くことができましょう。万が一敵軍に遭っても、そこなら一蹴する自信があります」
そう言うのに順って丘を下ると、なるほど一見平坦ながら近づくと起伏が多い一筋縄ではいかぬ奇妙な地形。一行は周囲を警戒しながら、アネクの傷に障らないよう進軍した。
意気揚がるイタノウ軍であったが幸い敵軍には遭わず、左派のアイルに辿り着くことができた。
しかし族長のトシ・チノはすでに出陣したあとであった。聞けばギィとゴロもともに南下したとのこと。やむなくアネクを預けて、これを追うことにした。
陽が傾いたころ、やっとトシ・チノの軍勢に追いついた。総勢五千騎、大鵬が翼を広げたような陣形を布いている。
インジャは、その手前一里のところでイタノウ軍を止めると、ナオル、マルケを伴って左派の中軍へと赴いた。来意を告げると喜んで中へ通される。初めて見るベルダイの族長トシ・チノの人となりはといえば、
身の丈七尺半、狼のごとき眼、虎のごとき髭、鷹のごとき鼻、鷲のごとき胸、威風辺りを払い、一指は千軍を退け、一声は万軍を震え上がらせる当代きっての偉丈夫、今は鎧に身を固め、非道の野人を討たんと総髪を逆立て、眼は炎を帯びて光芒を放っている。
「遠いところをようこそ。アネクを救ってくれたことは聞いた。本来なら盛大にもてなすべきだが、戦時ゆえご容赦願いたい」
トシ・チノはそう言ってインジャを迎えた。
「フドウのインジャです。かねてより大兄の名は聞いておりましたが、機会なくこれまで挨拶ができずにおりました。今日は縁あってお目にかかることができ、これに勝る喜びはありません」
そう言って、はるばる訪ねてきたわけを説明すれば、トシはおおいに喜んで、
「ギィ殿もゴロ・セチェンも陣中に居る。ここへ呼ぼうではないか」
傍らの兵に二人を呼んでくるよう命じると、さらに言うには、
「思えばインジャ殿の父フウ殿は、義を知り礼を重んじるまことの人物であった。我が部族の危難のおりにはハーンに叛くことなく最後まで戦ったと聞く。そのご子息が氏族を再興し、西にジョンシと結び、東にサルカキタンを破ったことは噂で聞いて心中喝采を送っていたところだ」
はっと顔を上げて、
「父をご存知ですか」
「フウ殿がご存命のころは、私もまだ幼子であったゆえ覚えているわけではないが、先代の族長、すなわち私の父から、その勇敢で誠実な人柄については聞き及んでいる。テクズスの手にかかり命を落とされたときには一族みな怒りに震えたそうだ」
インジャはそっと目を伏せて言った。
「……テクズスは、サルカキタンに斬られたと聞きました」
「テクズスのうしろにはサルカキタンがあった。だがさらにその背後にはヤクマン部のトオレベ・ウルチがおり、さらに中華がある。すなわち中華の脅威を脱して、初めてフウ殿の仇を討ったことになるとは思わぬか。そのためには志あるものが手を組んで部族の統一に邁進せねばなるまい」
自ら頷くとさらに言葉を継いで、
「貴殿の父と我が父はともにハーンを翼けて戦った。当時のハーン、チャムバル・ベクは我が祖父にあたるが、彼は二人を『若き二枚の翼』と呼んで重用したそうだ。すでに二人はこの世に亡いが、我らがその意思を継ごうではないか。盟友となってサルカキタンを討ち、ジョルチ部を再びひとつにしようぞ」
インジャは内心おおいに驚いた。ナオルも目を円くしている。いずれは左派と結ぶこともあろうかとは思っていたが、先方から提案してこようとは意外だったからである。インジャは慎重に言葉を択んで答えた。
「我が氏族はまだ微弱です。大兄と肩を並べるには小さすぎます。翼は両翼揃って初めて役に立つもの。私と大兄では上天を翔けるには釣り合いません」
トシ・チノは大笑いすると、
「謙遜することはない。フドウは、ジョンシ、キャラハンと結び、さらにはあの偏屈なズラベレンすら従えている。大を問えばタロト部のジェチェンと親しく、小を問えばカミタ、ドノル、そして今またイタノウを収めた。若くして戦に敗れたことはなく、ダルシェ、サルカキタンといった強敵をも退けていることを覩れば、貴殿の力はベルダイ両派とともにジョルチ部を三分しているとしてよい。これをもってこれを見れば、謙遜の余地などあるまい」
インジャはトシ・チノが思いのほか内情に通じていることに驚いて、
「いやいや、そもそも私が今日生きて大兄に見えることができたのも、すべて天王様の加護と、兄弟の助力の賜物です。私は何もできぬ一介の小人に過ぎません。大兄の言葉はありがたいのですが、『二枚の翼』となるのは遠慮したいと思います。しかしながら大兄が義軍を興すときには、手となり足となって先頭を駆けましょう」
トシ・チノはおおいに気を好くしたが、傍らのナオルらはインジャがあまりに辞を卑くするのをじれったく思っていた。
そうこうしているところにギィとゴロが到着した。トシは両手を広げてこれを迎える。インジャは二人の堂々たる様子に感心しつつ、拱手して言った。
「お二方の噂は遠く私のアイルまで轟いております。フドウ氏族長のインジャと申します。ゴロ殿に先の非礼を詫びようとマシゲルへ赴きましたが、聞けばギィ殿の婚礼の挨拶のためベルダイへ行かれたとか。あわててあとを追って参りましたところ、こうして不慮の事態に出遭ったという次第。以後お見知りおきのほどよろしくお願いします」
続いてナオル、マルケも型どおりの挨拶をする。ギィは答えて言った。
「マシゲル部ハーンの嫡子でマルナテク・ギィと申します。貴殿の勇名は遠く聞き及ぶところ。かねてよりひと目お会いしたいと願っておりました。邂逅かなってこれに勝る喜びはありません」
一方のゴロはというと、インジャの人となりをじっと観ている様子。拱手して名乗りはしたもののそれ以上は何も言わない。
トシ・チノが勧めて二人にも席が与えられる。インジャらは遠慮して客座を譲る。ああだこうだと譲り合って何とか席次が定まると、トシが口を開いて、
「いろいろと話したいこともあるだろうが、今はサルカキタンを退けるのが先決。とりあえず力を貸してほしい。右派軍は南方十里に留まって、こちらの出方を窺っている。陽が暮れるまで幾許もないが、今日中に追い散らしたい。一気に方を付けたいと思うがいかがであろう」
とて、居並ぶ好漢諸将の顔を見回す。ギィが進み出て、
「大兄の意のままです。我らはそれに順いましょう」
反論するものもなく、すぐに出陣となる。