第一六五回 ②
ジュゾウ光都に駆けて一丈姐を逃し
ゴルバン府署を設けて河東公に達す
ジュゾウたちが漸く光都を望めば、まだ敵影はない。
「おお、間に合ったようだ!」
一散に駆け込んで、すぐにカノンたちに見える。当然、光都からも河西に大軍があることは見えていて、どうしたものか頭を悩ませていたところ。ジュゾウが早口に言うには、
「悩んでいる暇などないぞ。すぐに退去せよ、とのハーンの勅命だ」
「苦労して得たものを……」
カノンはやや不満げな様子。ナハンコルジも目を瞋らせて、
「ハーンに伝えてくれ。たとえ百万の敵といえども、救援があるまで必ず守りとおしてみせる、と」
バラウンは困ったような顔で、口を閉ざしている。察するにすでに退去を進言して却下されたのだろう。ジュゾウは半ばあわて、半ば呆れて言った。
「道理の解らぬことを言うな。ハーンは諸君の命こそ街より重んじている」
「だが光都の守禦を託されながら一矢も交えずに逃げたとあっては、何の面目あって僚友に見えることができようか」
「悔しいのはみな同じだ。街などいずれ奪還すればよい。それも生きてこそかなうというものだ。ここで退いたとて誰が嗤おう」
「しかし……」
ずっと黙って聞いていたシャイカが、初めて口を開いて、
「もたもたしているうちに機を逸したら、むしろ嗤うよ、私」
「何だとっ!?」
目を剥いたナハンコルジはもはや顧みず、カノンに言うには、
「姉さんは解っているはず。すぐに逃げよう。今ならきっと人衆も助けられるよ」
「人衆を……。そうだ、黒曜姫の言うとおりだ。こうしちゃいられないね。みなで神都へ走ろう!」
カノンがきっぱりと言えば、それ以上逆らうこともできぬ。バラウンは明らかにほっとした様子で、
「石沐猴、我らはあとまで残ってできるかぎり人衆の離脱を援けよう。それこそハーンの御心に適う道ではないか」
何とか首肯したので、早速手分けして準備にかかる。バラウンとナハンコルジは兵衆を使って街中に布告を出し、退去を勧めて回る。
シャイカはカノンを伴って先発、神都を指す。道々、駅に達するごとに駅馬を光都に差し向けるよう要請する。もちろん人衆の移動に供するためである。また駅はすべて撤去して、駅站吏たちも神都へ向かわせる。
その他諸々の差配はジュゾウが残ってこれを担う。光都は俄かに上を下への大騒ぎとなった。多くの人衆が避難することを希望したからである。
幸いにして架橋の進捗は三分の一ほど、まだ時日はある。とはいえ一度完成してしまえば、歩騎併せて十万の兵に蹂躙されることになる。悠然と構えていられるわけもない。
急ぎに急いで、五日ほどのうちに光都はすっかり閑散となる。残留を望んだものは別として、数多の人衆が北へ向けて発った。馬が足りず、てくてくと歩いていくものもある。
公用の馬や車も供出したが、まるで追いつかない。楚腰道の駅から回された馬群に逢うたびに弱きものから順に与えたものの、それも限りがある。騎兵を率いて周囲を哨戒していたバラウンが言うには、
「なあ、石沐猴。この遅々とした歩みでは、河東に達した敵に追われたら、たちまち殲滅されるぞ」
「そのときはそのときよ」
不機嫌そうに答えるばかり。
最後に光都を出たのはジュゾウ。数百の騎兵を従えている。発つ前に例の架橋を望見すれば、すでに河の半ばを越えて迫ってきている。
「もうすぐこちらに達しそうだ」
そこでふと思案に暮れる。あれこれと逡巡したのち、何と言ったかと云えば、
「城門を壊そう。運びきれない火薬がある。僅かでも時を稼ぐべきだ」
たちまち実行されて四門は崩落する。それを見届けてジュゾウも発った。すると翌日には逃げる人衆の後尾に追いつく。眉を顰めて、
「ははあ、まだこんなところに。果たして逃げきれようか」
とはいえ、一歩でも進むよりほかにない。後方を気にしつつ先を急ぐ。
しかし幾日経っても追ってくる気配はない。そのうちに神都から白面鼠マルケが、ナルモントから白夜叉ミヒチと病大牛ゾンゲルが、多量の馬と車を連れて助力に現れた。
「ハーンの厩舎を空にしてきたよ。で、敵兵十万ってのは真なのかい?」
ミヒチの問いに答えたのはバラウン。
「はい、姐さん。対岸は敵兵で埋め尽くされていました」
「うひぃ」
声を挙げたのはもちろんゾンゲル。ミヒチはそれを一瞥したが、何も言わずに視線を戻して、
「もう光都は奪われたろうね」
ジュゾウが頷いて、
「俺が出るとき、橋は此岸に達しそうだったからな。とっくに光都に入っているだろう」
「ならば疾く神都へ。ぼやぼやしている暇はないよ!」
「はい、姐さん!」
バラウンが威勢よく答えて、一行はさらに足を速める。