第一六四回 ③
楚腰公神都に還りてインジャ西に帰り
神道子光都を慮ってゴルバン東を望む
チルゲイの物語をひととおり聞き終えると、インジャはおおいに感心して、
「奇人殿にかかれば、世間に解きえぬ謎などありませんね。どうか私にもその智恵をお貸しください」
するとひらひらと手を振って、
「智恵などありましょうや。みなが偶々見落としていることに気がつくだけのこと。気づきさえすれば、それはもう謎でも何でもないのです。私が役に立てるとすればその程度。国家の大事については、もっと相応しいものがこの場にいくらでもあるではありませんか」
「と言いますと?」
答えて言うには、
「獬豸軍師をはじめ、麾下にある英傑たちは無論ですが、まずは神道子にご諮詢(注1)ください。何となれば、かのものは西原を発つときから憂えていることがあるとか」
驚いてこれに目を向ければ、そっと頷いたので、
「東原で勝利を得たのは、まさに神道子の献策の賜物であった。思うところがあれば遠慮せずに言うがよい」
促せば一礼して言うには、
「ハーンは覚えておいでですか。先に神都を囲むときには必ず光都の守りに意を払うよう申し上げたことを」
「もちろん。だから石沐猴に千騎を与えて光都に送った」
「では、その後はいかがですか」
「その後?」
「はい。神都を得たのちのことです」
インジャは訝しく思いつつも、詳らかに語って言うには、
「楚腰公らが神都に移るとき、護衛として赫彗星が千騎を率いて光都を出た。よって今は黒鉄牛と石沐猴が四千騎を率いてある」
これを聞いてナユテは瞠目する。言うには、
「それでは増援は……!?」
「していない。東原は平定されて、ことごとく神箭将の治下にある。仮に光都を窺うものがあっても、固く籠城していれば必ず救援が至ろう」
ナユテはすぐには答えない。難しい顔つきで考え込む。インジャはやや不安を覚えて尋ねた。
「何を憂えている」
漸く口を開いて、
「……あの四頭豹が、ただ東原を擾したばかりで何の得るところもなかったとは、いささか腑に落ちませぬ」
「うむ……」
「四頭豹は東原を、厳密に言えばまずは光都を欲しているように思うのです。隻眼傑を叛かせて神箭将の力を削ぎ、神都を我々に与えて楚腰公を移させたのは、もしやそのための布石なのではないかと……」
百策花セイネンが思わず声を挙げる。
「まさか! いくら四頭豹でもそこまでは」
向き直って説いて言うには、
「私も確信があるわけではない。しかし四千騎ではやや心許ない」
インジャがまた言うには、
「足りぬ、と申すか」
「はい。もっとはっきりと申し上げるべきでした。鄙見ではありますが、光都には万騎に相当する将兵を割くべきかと。すなわちハン、もしくは族長級のものを」
ナユテが想定していたのは、例えば獅子ギィ、霹靂狼トシ・チノ、碧水将軍オラルといったものたち。できることならば光都周辺に牧地を与えて、これを守らせるべきだとすら考えていた。
それを聞いたインジャはううむと唸って、
「軍師、どう思う」
「神道子の憂慮、まことにもっともかと存じます。いずれは必ずそうするべきかと存じます」
「ん? いずれは、と言ったな。それは今ではないということか」
やはり平静な調子で述べて言うには、
「はい。牧地の改編は、性急に行うべきではありません。しかも東原はそもそも神箭将の版図なれば、ハーンの一存で決めるわけにもいきません」
「そのとおりだ。しかしもし四頭豹が大軍を発したら、光都は殆うい」
インジャの疑念にも、サノウの口調は変わらない。
「超世傑、紅火将軍、碧水将軍、神風将軍、赫彗星の五将をして敵を牽制させましょう。さすれば東原に出征することはできますまい。たしかにヤクマン部は兵衆十万を誇る大族ですが、光都を落としてこれを維持し、神箭将に伍して東原に地歩を築くには僅かに兵が足りません」
「ふうむ……」
常には果断なインジャにしては珍しく、方策を決めかねて黙りこむ。黄金の僚友たちもあえて口を挟まない。じっと断が下るのを待つ。
沈黙を破ったのはウリャンハタのチルゲイ。
「ハーン、ここはひとまず一将に兵を与えて、急を凌ぐべきでは? のちに神箭将と諮って、然るべき配置を定めればよろしいかと存じます」
途端に愁眉を開いて、
「やはり奇人殿はセチェンだ。よし、とりあえず九尾狐に二千騎を授けて、すぐに渡河させよう」
九尾狐ことテムルチは、山塞での用兵に巧みなもの。きっと城塞の防衛にも力を発揮するに違いない。居並ぶものは喜んで賛同する。
と、ちょうどそのとき、急を告げる早馬の到着が報じられる。みな何ごとかと色めき立つ。
(注1)【諮詢】はかり問う。相談する。意見を求める。