第一六三回 ④
サノウ義君に見えて呼擾虎自ら刎し
ドクト奸人を逮えて蓋天才専ら恥ず
ヒスワはもとはと云えば、神都一の富豪だったゴロの家宰に過ぎない(注1)。ゴロの留守中に偶々ハツチの書簡を手に入れたところから、俄かに野望を逞しくして、主人の妻たるミスク(注2)と語らい、ゴロを陥れようとした。
迂闊にもゴロは二人の本心を測り損ねて、まんまと罠に嵌まった(注3)。大河に身を投じて何とか虎口を脱すると、紆余曲折を経てギィを恃むことになり(注4)、爾来その下にある。
一方のヒスワは、奪った富を使って神都の中枢に喰い込む。種々の奸謀を重ねた末に、大院を廃してついに皇帝と称するに至った。
街から多くの好漢を逐い、東西を問わず幾つもの部族を戦に巻き込んだ。ここに身を亡ぼすことになったが、犯した大罪の数々を覩れば命ひとつではとても贖いきれぬほど。
すべての好漢たちが参集すると、インジャは直ちにヒスワの処刑を命じる。もちろん一切の弁明を許さない。居並ぶものはあれやこれやと過去を思い返しながら、その最期を見届ける。ジュゾウがゴロに言った。
「やっとあの奸人との悪縁が切れたのだな」
笑顔なく答えて言うには、
「旧怨を雪いだ喜びよりも、己の不明から草原に乱を招いたことを恥じるばかりだ。まったく私さえしっかりしていれば……」
「言うな、言うな。君だけの思いではない」
奸婦たる皇后ミスクは、見つかったときにはすでに殺されていた。かつての美貌はとうに失われて、醜く肥えた淫欲の塊。ほかの屍とともに無造作に車に積まれて運び出される。
かくして神都の敵人は、逃亡したスブデイを除いてことごとく葬った。
インジャは諸将と諮って、さまざまなことどもを定める。まずはキノフの進言を容れて、軍勢は城内に留めず、ほとんど退去する。城門の監視に僅かな兵を残すばかり。
門は開け放したままにして、遺骸や瓦礫の搬出を急がせる。悪疫に斃れたものは病に克った人衆に委せ、兵刃に仆れたものは降兵たちが運ぶ。
半焼した宮殿は、ノイエンに命じて破却させる。建材として使えるものは、石と木とを問わず、市街の復旧に供した。
復旧については市街を東西に分けて、東半はワドチャとジュゾウが、西半はサノウとゴロが監督する。みな嬉々としてはたらいたので、徐々にではあるが昔日の姿を復しはじめる。
何より、街に活気が溢れた。それはヒスワが登極してより絶えてなかったことである。
また光都に早馬を遣って、楚腰公サルチンらに神都奪還を報せる。暴政を嫌って難を避けていた好漢たちは等しく喜んだ。
早速サルチン、ヘカト、そして光都で療養していたツジャンが北上することになり、赫彗星ソラが千騎を率いてこれを護衛する。代官としてカノンが残り、バラウンとナハンコルジが衛兵を束ねる。
このときはまだ神都を今後どのように統治していくか、実は決まっていない。かつてヒィ・チノはサルチンに、これを奪ったら返還すると口頭で約した(注5)。
しかし主力として戦い、ヒスワを擒えたのは、まさにジョルチの将兵であった。当面は人心の慰撫と市街の復旧を優先したので、あえて誰もこのことには言及しなかった。
初めてそのことに触れたのは、もちろん獬豸軍師サノウ。ある日、インジャを尋ねて何げない調子で言うには、
「人衆は悪政と戦のために、冬の羊のごとく疲弊しています。しばらく租税を減免するべきでしょう」
やや困惑した様子で答えて、
「いかにも軍師の言うとおりだが……」
「ええ、承知しております。そのことは治者の大権です」
「……ならば、私が言うべきことはない」
サノウはインジャをじっと正視していたが、やがて言った。
「ハーンはいかがなさるおつもりですか、神都を。帝都として収められますか?」
即答して言うには、
「いや。神箭将が約したとおり、神都は神都のものに返す。それが道理というものだ」
サノウはしばらく無言だったが、ふうと息を吐くと、
「……よろしいでしょう。楚腰公らに改めて提言することにいたします」
「そうしてくれ」
ほっとしたように言えば一礼して退出したが、くとくどしい話は抜きにする。
サルチンたちが胸を躍らせつつ神都に至ったのは、夏も終わろうとするころだった。先にソラを遣って到着を知らせれば、インジャ、ヒィ・チノ、ギィなどが城外に建てられた幕舎にうち揃ってこれを迎える。
かくしていよいよ神都の治権の行方を定めるわけだが、このことから神都の名士はことごとく原籍に復して、おおいにその才幹を展べることになる。
譬えて云えば、暴風去れば必ず蒼穹高しといったところ。目に映るのは同じ街だが、心なしか明るくすら見える。前途は洋々、雲ひとつないかのよう。
しかし俗に「好事魔多し」と謂うとおり、何が起きるかわからないのが乱世の宿命。果たして、神都は誰の手に託されるか。それは次回で。
(注1)【ゴロの家宰に……】ヒスワ初登場は、第一 四回①参照。
(注2)【ミスク】ゴロの妻。第一 四回②参照。
(注3)【罠に嵌まる】ゴロは、トシロルたちの忠告を聞かずに危機に陥る。第一 四回③参照。
(注4)【紆余曲折を経て……】ゴロは夜雷公ジュドの一党に加わることになり、そこに偶然捕まったアンチャイを救ってギィに投じる。第一 五回①から、第一 五回③参照。
(注5)【奪ったら返還すると……】第九 一回④参照。