第一 七回 ① <マルケ登場>
インジャ死地を逃れ至りて衆星に見え
ギィ武勲を顕し果たして野人を奔らす
インジャはアネクを腕に抱えたまま必死の逃走を続けた。サルカキタンの追撃の手は緩むことなく、友軍の兵は一人欠け、二人減り、ついに百騎あまりを残すばかりとなった。追う右派の兵は締めて三千。
並走するナオルが言った。
「美髯公と飛生鼠の姿が見えません。まさか……」
「案ずるな。天王様の加護があろう。まずはトシ・チノと合流することだけを考えよ」
それでナオルは口を噤む。さらに駆けること一刻、もう背後に味方の姿はほとんど見えなくなっていた。
しかしインジャの馬は希代の駿馬、アネクと二人を負いながらも徐々に追撃を引き離していた。ともすればナオルも遅れがちになる。
しかしながら、いかに駿馬といえども休む間もなく駆けるのにかぎりがあるのは当然のこと、次第に顎が上がってくる。このままでは馬を騎り潰してしまう。
ふと前方に木が鬱蒼と生い茂った丘が見えた。
「ナオル、何とかしてあそこまで行くぞ」
「承知!」
二人は余力を振り絞って馬を急かす。
と、どこからか一本の矢が飛んできて目の前の地面に突き刺さった。馬は驚いて前脚を高々と上げる。インジャは手綱を強く引いて、漸く落馬を免れる。
「何ものだ!」
ナオルがインジャを庇うように進み出て叫んだ。すると丘の上に見たことのない旗が一斉に現れて、木々の合間から十数騎ほど駆け出てきた。
「それはこちらが聞きたい。お前ら、どこの雑兵だ」
そう言った男を見れば、一見して並のものではない。
身の丈七尺半、年のころはいまだ二十歳を超えず、両眼は玉のごとく煌めいて知の光を宿し、白面にして白心、義を知り忠を重んじる一個の好漢。
インジャはその風貌がただものではないのを看て取って、あわててアネクを鞍上に横たえると拱手して言った。
「好漢の土地とも知らずに失礼しました。私はフドウ氏のインジャと申す一介の旅人で、ベルダイ氏の戦に巻き込まれて難渋しております。偶々、左派の将であるアネク殿を敗戦より救ったものの援軍はいまだ到着せず、さりとて行くところとてなく、やむなく森に身を隠そうとしたところ、図らずも好漢に遇ったのです」
これを聞いて今度は相手が目を瞠った。やはりあわてて拱手して言うには、
「すると貴公があの高名なフドウの族長インジャ様でしたか! そうとは知らず失礼いたしました。インジャ様の勇名はこの小さな丘まで轟いておりますぞ。私はイタノウというつまらぬ小部族の長で、マルケと申す小人です。かねてからインジャ様を慕っておりましたところ天王様に通じたのか、こうして邂逅かなってこれに勝る喜びはありません」
まさに二人が出逢ったのは上天の配剤にほかならない。危地においてまた新たな宿星が引き合わされたのである。
詳しい事情は山塞で、というマルケの勧めにインジャは喜んで順う。アネクの意識はまだ戻らなかったので、マルケが部下に命じて車を曳いてこさせた。
山塞に誘われたインジャは、ゴロの受難から語り起こしてこれまでの経緯を細かに話した。マルケは感じ入って聞いていたが、やがて言うには、
「諺にも『猟師も懐に飛び込んできた窮鳥は殺さない』と謂います。ましてや貴公と私は先祖に仇なく、今に恨みある間柄ではありません。それなのに好漢の誉れ高いフドウの義君を、むざむざ右派の野人に討たせるようなことがどうしてできましょう。この辺りは我らにとって己の掌のようなもの、必ず無事に左派の陣にお送りしましょう」
インジャとナオルは厚く礼を述べた。マルケはさらにアネクのために薬を調合した。これを傷に擦り込んで白湯を飲ませると、漸く意識を取り戻す。
すぐには事態が吞み込めないようだったが、死地を脱したことが解ると、わっとインジャの胸に飛び込んで涙を流す。思ってもいなかったアネクの行動にインジャは顔を真っ赤にしておおいに困惑する。
アネクはしばらくそのまま泣いていたが、はっと我に返るとあわてて身を離し、耳まで染めてしきりに頬を拭う。漸く落ち着いてくると、今度は与えられた兵を失ったことで激しく己を責めはじめた。
また関わりのないインジャらを危険に晒した上に、ハツチとジュゾウが戻らぬことを知って、深く傷ついた様子。インジャらは言葉を尽くしてこれを慰める。マルケが傍らから口添えして、
「とにかく今はトシ・チノの援軍と合流することを考えましょう。そうすればサルカキタンを破り、インジャ様の僚友を救うこともできようというもの。私はまたギィ様と多少面識があります。インジャ様の旅の目的も果たされましょう」
どういうことかと云えば、ギィがベルダイへ向かう途中やはり不用意に丘に近づいて、同じように山塞に招かれたもの。インジャはこの偶然に首を傾げながらもおおいに喜んだ。