第一六二回 ④
皇宮炎上してブギ・スベチ獅子を迎え
小人落命してコヤンサン旧知を見る
コヤンサンはおもむろに立ち去ろうとするアルビンを見失うまいとて、大声で呼ばわりながら懸命にこれを追う。なぜ拘泥しているのかといえば、まもなく判ること。周囲の兵衆は驚き、また訝しむ。唖然として見ていると、
「誰か、あの男を捕まえてくれ! おい! 疾く!」
わけはわからないが、何といってもジョルチン・ハーンの黄金の僚友の一人、忠義の猛将として名高きコヤンサンの言うことなので、疎かにもできない。惑いながらも数人の兵がこれに従う。
「おおい、待て、待て! お前だ、止まらぬか!」
聞こえぬはずもない大音声。やっとアルビンはちらと顧みるそぶりを見せたが、むしろ足を速める。
「あっ! こらこら、止まれ、止まれっ!」
さらに喚きたてる。あとより従った兵衆はいずれもコヤンサンより速足にて、いつかこれを追い抜いてアルビンに迫る。幸いにして相手も足が遅く、裾の長い袍衣も障りとなって徐々に間が詰まる。
ついに先頭を行く兵士がその肩を把む。振り払ってなおも逃れようとするが、その腕を取ってぐいと引いたかと思うと、足をかけて地に転がす。
それを見たコヤンサンは吃驚して、両手を振り回しつつ、
「あっ! いかん、手荒なことは止せ!」
兵士は意外そうな顔をして、うっかり手を放す。アルビンはしめたとばかりに立ち上がろうとしたが、そのときにはすっかり兵衆に囲まれていた。諦めて再び腰を下ろすと、腕を組んで俯いたままひと言も口を利かない。
これを捕らえた兵衆もまた男をどう扱ってよいかわからず、ただ佇んでコヤンサンが至るのを待つ。
ふうふうと荒く息を吐きながら、やっとのことでコヤンサンが追いつく。しばらくは膝に手を突いて呼吸を鎮めていたが、漸く上体を起こしてアルビンに正対した。しばらくはじろじろとこれを眺め回している。やがて意を決して言うには、
「……すまぬが、顔を見せてくれないか」
アルビンは無言で頭巾の端を引いて拒む意志を示す。そこで重ねて言うには、
「お前はどうも私が知っている人によく似ているような気がするのだ。人違いなら謝る。ちらと顔を拝ませてくれるだけでよいのだ」
「…………」
やはり答えない。
コヤンサンはしばらく迷っている風だったが、そもそも細かい駆け引きのできるものではない。思いきって猿臂を伸ばすと、すばやく頭巾を剥ぎ取ってしまった。その下から現れた顔を見て、
「おお、おお……、やはり貴殿は……」
アルビンと名乗っていた男は眉を顰めて、にこりともせずに言うには、
「相変わらず粗暴な奴だ」
コヤンサンは叫んだ。
「……軍師っ!! やっぱり軍師だ! ああ、生きていたんですね!!」
いっぱいに開いた目からは、すでに滂沱と涙が溢れる。がばと抱きついて、おいおいと声を挙げて泣く。男は辟易して、
「放せ、気色の悪い」
「放しませんよう! 決して放すもんか。もうどこにも行っちゃいけませんよう」
そう、アルビンの正体は旧の断事官、獬豸軍師ことイェリ・サノウであった。かつて南征失敗の責を負って下野(注1)したきり消息が知れなかったのが、不意に再会したのである。コヤンサンの驚愕、歓喜たるや、いかほどのものだったか。
「解ったから放せ! 私はどこへも行かぬ」
「それは真かい? いや、そう言って軍師はいつも人を欺くんだ!」
「人聞きの悪いことを言うな。兵衆が見ているではないか」
「かまうもんか! ああっ、もはや神都などどうでもよい。軍師が見つかったのだ!」
サノウはおおいに呆れて、
「何てことを言うんだ。ええい、放さぬか。これではハーンのもとに参ることもできぬ」
これを聞いてさっと離れると、
「おおっ! ハーンにお会いくださるか」
「やむをえぬ。お会いして赦しを請おう」
「赦し? いやいや、どれほど喜ばれるか! さあ、参りましょう、参りましょう。気が変わらぬうちに」
背を押して急かしたてる。
「押すな、押すな! ……まったく、誰にも見つからぬようそっと去るつもりだったのだが、悪疫のことだけは伝えておかねばならぬと思ったのが失敗だった」
「何をぶつぶつ言っているんです?」
「お前に言ったわけではない。参ろう」
するとコヤンサン、今度はその手を取って引こうとする。あわてて振り払うと、
「手を繋ぐな!」
「軍師に信用がないのがいけないんですぜ。いついなくなるか知れたもんじゃない。そうだ!」
何か思いついたらしく、従ってきた兵衆に告げて言うには、
「お前ら、俺が軍師をハーンの陣に無事送り届けるまでついてこい。四周を固めて決して逃がすな。もし逃したら、罰としてみな殺す」
あまりに道理のない命令に兵衆は愕然とする。サノウが窘めて、
「何と酷い命令だ。無理を通すにもほどがある」
コヤンサンは、へへへと笑って、
「こう言っておけば優しい軍師のことだ、途中でいなくなったりできんでしょう?」
サノウはもはや何も言わない。
ともかく宿星の運行の玄妙たることかくのごとし、廻り廻って再会できたのもすべてはテンゲリの定め。まさしく「命運には逆らえぬ」といったところ。もとより獬豸軍師は欠くべからざるジョルチの智嚢、これなくして黄金の僚友は決して揃わない。果たして、義君はどのように獬豸軍師を迎えるか。それは次回で。
(注1)【南征失敗の責を負って下野】南征敗退後、サノウはインジャに拝謁して下野することを望んだ。五年前のことである。第一一九回③、および第一一九回④参照。