第一六一回 ②
ヤマサン楼車を毀たんとして忽ち命数竭き
ヒスワ侍衛を充たさんとして乃ち佞臣奏す
もちろんヒムガイが狙うのはヤマサンの命ひとつ。よって、道を空けて逃げ散った兵は辛うじて死を免れる。いつの間にかヤマサンの周囲には誰もいなくなり、近衛兵の刃を阻むものとてない。
ヤマサンはなぜか馬上にて憮然(注1)たる面持ち。抗議の声を挙げるでもなく、ただすらりと剣を抜き放つ。ヒムガイはそれを見て叫んだ。
「射よ! 矢を放て!」
応じて忠順な近衛兵たちは、手に手に弓を執って矢をつがえる。一斉に放てばどうして能く逃れようか、吸い込まれるように次々と突き刺さる。
「…………!!」
やおら剣を翳しかけたところで動きが止まる。僅かにテンゲリを仰いだと思いきや、がくりと首を折ってそのまま鞍から滑り落ちる。どっと地に伏せって動かなくなったが、あえて誰も近づこうとしない。
「笑面獺め、最期に笑っていたぞ」
多くのものがそれを目撃してぞっとしたのである。凱歌も歓声もなく、みな目瞬きも忘れて立ち尽くす。
最初に我に返ったのはやはりヒムガイ。あわてて下馬して駈け寄ると、その死をしっかりと確かめる。
「ふむ、間違いなく息がない」
慄く東門の兵衆を慰撫して、遺骸を開きかけた門から城外に棄てさせる。十分に警戒して辺りを探ったが、敵兵の姿はない。訝しく思いつつも急いで門を閉じる。ひと息吐いておもえらく、
「今思えば、『城塞を衛る法はただひとつ、内から門を開かぬこと』などとよくもまあ言えたものだ。さてはあのときから肚の裡では今日のことを謀っていたに相違ない」
ご存じのとおりそれはまったくの誤解だったが、すでに「屍は語らない」。
そこへ騒ぎを聞きつけた大将軍グルカシュが駆けつける。ヒムガイは念のために戦陣を組んでこれを迎えた。その様子を見たグルカシュも街道に兵を止めて、やはり戦列を整えるよう命じる。
一触即発、俄かに殺伐とした空気が漂う。両者はものも言わずに睨み合う。テンゲリは漸く白みはじめ、人やらものやらの輪郭が少しずつ浮かび上がってくる。
そうするうちに、グルカシュのもとへ逃げ込んだ東門の衛兵の訴えで、おおよその事情が伝わる。グルカシュは、ついに勇を奮って一歩進み出る。難詰して言うには、
「青面鼬、これはいかなることか! 笑面獺に何の仇があった!」
応じてヒムガイも前に出たが、こちらはやや困惑した様子で、
「何をとぼけているのだ。アルビンから何も聞いていないのか?」
「アルビンだと!? それについてもお前に訊きたいことがある」
「何っ?」
「あれは昨日お前を訪ねると言って出たきり、いまだ戻らぬ。どこへやった? 隠すとためにならぬぞ」
ヒムガイはおおいに驚く。まことに意表を衝かれたので、何とも答えようがない。それをグルカシュは、うしろめたいことがあるのだと決めつけて激昂する。指を突きつけて、罵って言うには、
「この奸者め! 先に私闘にてタイラントを殺したハラ・ドゥイドがどうなったか、見ていなかったのか? それとも己ばかりは別だと驕ったか」
「ま、待て! 大将軍は思い違いをしている」
「どうした、臆したか」
「いや。笑面獺は敵に内通しており、城門を開いてこれを迎え入れようとしたために処断したのだ。不穏の動きあらば討て、と皇帝陛下より密勅も得ている」
グルカシュはせせら笑って、
「よく回る舌だ。どこの城門が開いているって? 迎えるべき敵軍とやらはどこにある。密勅云々に至っては誰が信じよう。妄言もほどほどにしておけ!」
ヒムガイは瞠目して、
「真だ! 城門は開け放しておくわけにもいかぬゆえ、閉じさせた。たしかに敵の接近はなかったが……。な、何か笑面獺がしくじったのだろう! 密勅の件も陛下に確かめれば……」
「囀るな。私闘は厳刑である。法を枉げることはできんなあ」
「待て! 陛下に……。いや! まずはアルビンだ、アルビンに……」
再び激怒して、
「そのアルビンをお前はどうしたのだ!! よもや、あれもお前が……」
「知らぬ! まことに知らぬぞ!」
身に覚えのない冤罪に周章狼狽して、弁明もままならない。ますますグルカシュはヒムガイが何かやったものだと確信する。顧みて兵衆に攻撃の命を下さんと身構えた。
ちょうどそのとき、南方から一群の人馬が駆けてきた。グルカシュもヒムガイも、何ものかと緊張して見遣る。すると先頭にあった将が手を挙げて叫んだ。
「おおい、待たれよ、待たれよ!」
よくよく見れば、何と南門を守っているはずのブギ・スベチ。争っていた二将はなぜ彼がここにいるのか、わけがわからず唖然とする。
よほど急いで来たものと見えて、ブギ・スベチは馬を止めると、ぜいぜいと息を調える。やっとのことで身を起こして言うには、
「双方、矛を収められよ。敵は城外にあるぞ、内に争ってはならぬ。僭越ながら私に仲裁の労を執らせたまえ」
(注1)【憮然】失望、落胆してどうすることもできないでいるさま。また意外なことに驚き呆れているさま。