第一六一回 ①
ヤマサン楼車を毀たんとして忽ち命数竭き
ヒスワ侍衛を充たさんとして乃ち佞臣奏す
さて、神都が包囲されて数か月。守るジュレン軍は力を併せるどころかいよいよ啀み合って、ついにハラ・ドゥイドがタイラントを刺殺、処断されるという事態に至った。
悪疫に罹患したムンヂウンもあえなく歿して、将の不足はいかんともしがたい。にもかかわらず青面鼬ヒムガイは、笑面獺ヤマサンに疑心を募らせて、何かあれば討とうと目を光らせていた。
と、東門の戦況に変化が訪れる。ジョルチ軍から鴉楼と象車が送られてきたのである。
試みに白夜叉ミヒチを載せた鴉楼を近接させてみたところ、守将がヤマサンであることが判明する。ナルモント側はおおいに驚くとともに、陣立を再編してこれを攻略せんと意気揚がる。
もちろんヤマサンが手を拱いているはずもなく、敵が攻勢に出る前にふたつの兵器を破砕してしまおうと夜襲を画する。これまで一度も城門を開いて撃って出たことはなく、警戒があるとは思えない。寡兵とはいえ十分に成算がある。
しかしそれはヒムガイの目には不審な動きとしか映らない。かつてのアルビンの言葉が脳裏を過る。やはりヤマサンは敵に通じており、ついに城門を開いてこれを導き入れようとしているのだと決めつける。
夕刻、その陣にアルビンが現れる。低い声で言うには、
「……奴が動きますぞ」
ヒムガイはぎょっとして、
「なぜそれを」
「大将軍もまた奴に信を置いておりません」
「ふん、監ているというわけか。然り、俺もそう思っている」
アルビンは深々と頭を下げて、
「さすがは青面鼬様。もしやと思って参ったのですが、要らざる心配でした」
「いや、よい。それで、お前の見たところ奴が動くのは夜か、朝か」
即答して言うには、
「早朝でしょう。兵を招き入れたあと、次第に明るくなるほうがよいはずです」
「なるほど。参考になった」
「とんでもない、鄙見を申し上げたまででございます」
ヒムガイはまだ何か言おうか言うまいか逡巡している風だったが、意を決して口を開くと、
「アルビンよ。笑面獺はなかなかの良将だ。後背からの奇襲とはいえ、奴を討ち、敵の突入を阻むことができようか」
するとこれもまたすぐに答えて、
「ご懸念は無用です。人というのは、己の策がうまくいきそうだと思った瞬間、最も弛むものです」
愁眉を開いて言うには、
「そうか、お前は智恵があるな」
「とんでもない。俗に『名は体を表す』と謂います。私の名はアルビン(※役立たずの意)ゆえ……」
「ふふふ、おもしろい奴だ。ほかに何か伝えおくことはないか」
すると僅かに顔を上げて、
「大事なことを失念しておりました。青面鼬様が奴を討つのは、私怨からではなく神都を思ってのこと。しかるに先の征西将軍(※ハラ・ドゥイドのこと)と同じ轍を踏んでは何にもなりません」
ヒムガイは口角を歪めると、
「案ずるな。……実は皇帝陛下より、笑面獺に不穏の動きあらば討てと密命を受けている」
「そうでございましたか。ならば怖れることはありませんな。存分になされませ」
「朗報を待っておれ」
アルビンは一礼して足音も立てずに去った。このあと何を思ったか、彼はグルカシュのいる北門には戻らなかったが、くどくどしい話は抜きにする。
明け方。ヤマサンは兵衆をうち揃えて機を窺う。城壁の上から闇を透かして望めば、敵陣はひっそりと音もなく、僅かに哨戒する兵の灯す炬火が見えるばかり。
「思ったとおりだ。備えは薄い」
ほくそ笑む。その目はナルモント軍にのみ向けられていて、己が後背から視られていることにはまったく気づかない。城壁を降り、門の前にて待機する。
そのころ、ヒムガイもまた兵衆を幾手にも分けて静かに付近に潜んでいた。
「よいか、門が僅かでも開いたら突っ込むのだぞ」
傍らの兵に小声で確認する。もとより指令は徹底していたから、これは己に言ったものかもしれない。
半刻ほど経ったろうか。陽が昇るにはまだときがあるが、闇はすでに遠ざかり、青い風景の中で人の動きが判るほどには明るくなる。
と、淀んでいた空気がふわっと波打つ。東門の前の兵衆に動きはないが、それぞれ得物を握り直したり、手綱を持ち替えたりと僅かにざわめく。
なおも見ていると、中央に立つ将が、すっと右手を挙げて何やら指示を出す。頷いた数名の歩兵が大きな閂を引くと、門扉に手をかけてゆっくりと開いていく……。
「今だ! 敵に通ずる佞者を討て!!」
ヒムガイの号令が響きわたる。応じて方々からわっと近衛兵が群がり出て、盛んに喊声を挙げながら襲いかかる。
不意を衝かれたヤマサンの兵衆は何が起きたかもわからず、片端から討ち取られていく。抗う暇もない。