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草原演義  作者: 秋田大介
巻二
64/783

第一 六回 ④

インジャ(すなわ)ち虜囚と為りて女傑に()

アネク(たちま)ち玉質を(そこ)ない義君に救わる

 ハツチはまた別に考えるところがあって言うには、


「我らが戻ったとて劣勢は(くつがえ)らぬ。ならば急使殿に同行して、トシ・チノの発する援軍に加わろうではないか」


「それまでに(ソオル)が終わっていたらどうする」


「勝敗は兵家の常、祈るよりほかにあるまい」


 今にも口論を始めそうになったので、ナオルが言うには、


「言い争っているときではない。ここは戻って戦えるだけ戦って、(あや)ういとなったらアネク殿だけでも救って、トシ・チノに合流(ベルチル)しようではないか」


 ハツチはなおも渋い表情で、


「インジャ様とナオル殿は、サルカキタンにとっては憎んでも余りある仇敵(オソル)。いたずらに戦場に飛び込めば、身の危険(アヨール)は避けられませんぞ」


 そこでインジャが、これを制して言った。


「昨夜の非礼(ヨスグイ)(つぐな)いをしよう。何としてもアネク殿を救い出す」


 ほかならぬインジャがそう言うのであれば否やもない。余の二人はもとよりそのつもりだったので、おおいに奮い立つ。インジャはハツチに対して、


美髯公(ゴア・サハル)はそもそも文章の徒。不利な戦に加われとは言わぬから、急使殿とともに行ってもよいのだぞ」


 ナオルとジュゾウはなるほどと首肯したが、当のハツチはこのひと言で俄然勇気(ヂルケ)が湧いてきて、どうしても行くと言いだした。なぜなら彼は文人として軽く見られるのを潔しとしなかったからである。


 もちろんインジャはそれを知っていてあえて先のように言ったのである。とはいえハツチは身体(ビイ)は大きいが武芸は不得手、三人から離れぬよう言い含められた。四人は急使に別れを告げ、大急ぎで(アクタ)を返す。


 想定していたよりも早く、前方で砂塵が巻き上がるのが見えてきた。これはアネクが撤退しながら戦ってきたためだろう。好漢(エレ)たちは、それと気合いを入れると馬腹を蹴った。


 アネク軍はかなりの苦戦を強いられているようである。兵はみな傷だらけで数も相当減っている。(ブルガ)はおそらく味方(イル)に数倍するものと思われる。いまだ総崩れにならないのはアネクの人徳と用兵の才略(アルガ)賜物(アブリガ)である。


 そのアネクは彼らが到着したちょうどそのとき、幾度目かの突撃に入ろうとしているところだった。そうして敵の(フル)を止めては少し退き、追われればまた突撃するということを繰り返しながらここまで来たのである。


 インジャらは大声で名乗りながら、アネクのもとへ辿り着いた。アネクは返り血を全身に浴びて戦袍は赤く染まり、すでに(ヌル)(アミ)をしていたが、それでも笑顔でこれを迎えた。


 馬上で微笑む姿(カラア)は神々しくさえあり、古の伝承に云う戦の女神を髣髴(ほうふつ)とさせる妖しい美しさを伴っていた。


「アネク殿、微力ながら戦列(ヂェルゲ)に加わりに参ったぞ」


 インジャが言えば、拱手して答えて、


「見てのとおりの苦しい戦況。義気に感謝します」


 四人の好漢は無言で頷くと、手に手に得物を取った。インジャは光り輝くひと振りの長剣(オルトゥ・ウルドゥ)を抜き放ち、ナオルはそれと一対(オレエレ)を為す(きら)めく長剣を掲げ、ジュゾウは(グル)をも砕く棍棒を握り、ハツチは小脇に(ヂダ)を抱える。


 さてアネクの得物はといえば、何と(サルヒ)をも切り裂く二条の鉄鞭(テムル・タショウル)。兵に向かって言うには、


「みなのもの、ここにかの高名(ネルテイ)なフドウ氏のインジャ殿が助勢に参られたぞ! 族長(ノヤン)様の援軍もいずれ到着しよう。さあ、右派(バラウン)の野人にひと泡吹かせるのだ!」


 疲労困憊しているはずの兵もそれを聞いて、おおうと喊声を挙げる。そのどよめきが響き(わた)って、一瞬右派軍の動きが鈍った。すかさずアネクは(タショウル)を振り下ろす。それを合図に一丸となって突撃を敢行する。


 アネクは先頭に立って疾駆(ツォギオ)し、瞬く間(トゥルバス)に数騎を叩き落とす。インジャらはこれを護るように従って、群がる敵を片っ端から薙ぎ倒した。


「何とも勇ましい娘よ」


 ナオルが思わず漏らす。


 アネクの(ガル)がさっと(ひるがえ)るたびに敵騎は、あるいは(ヌル)を潰され、あるいは肩を撃たれ、悲鳴を挙げて落馬していく。その鉄鞭の威力は凄まじく、またインジャらの奮戦もあって、右派軍も策戦を変更せざるをえない。


 すなわち正面きって兵を合わせるのを止めて包囲(ボソヂュ)にかかる。アネクの鋭鋒をなるべく避けて、寡兵である左派(ヂェウン)軍を翻弄し、消耗させる(はら)である。


「返せ! 戦え!」


 アネクは業を煮やして、敵を追っていく。


「待て! 深追いしてはいかん」


 ナオルが叫んだが聞く(チフ)も持たない。四人はあわててこれを追う。


「いかん、包囲が完成してしまったら逃れられぬ」


 ナオルが言えば、インジャはちっと舌打ちして馬を()かす。するとその意思(オロ)が通じたのか、猛然と疾駆(ダブヒア)する。アネクに追いつくと、声高に言った。


「周りをよく見ろ! 囲まれるぞ」


 はっと我に返るとあわてて馬首を(めぐ)らせる。インジャも並走して駆け戻る。


 と、突然アネクが、あっと(ダウン)を挙げて()()った。見れば肩口に一本の矢が突き刺さっている(カドゥグタダアス)。肩を押さえて(あや)うく落馬しそうになる。


 インジャはすぐさま馬を寄せてその腰に手を回すと、さっとアネクの身を抱き取った。これには両軍ともに、おおと感嘆の声を漏らす。


「義兄、アネク殿は!」


「傷は深くない! このまま退くぞ。全軍に撤退の指示を!」


 インジャは片腕にアネクを抱えたまま、足を緩めず自陣を駆け抜けた。


 ジュゾウが呆然としている兵から金鼓を奪って、精一杯叩き鳴らす。ナオル、ハツチは口々に退却を触れ回った。主将の思わぬ負傷に我を忘れていた兵たちも、はっとして我に返る。


「駆けろ、駆けろ! 死にたくなかったらとにかく駆けろ! 死ぬ気で駆けろ!」


 さすがのナオルも少しくあわてて、「駆けろ」を連呼しながらインジャを追う。左派の軍勢は一斉に反転した。


 サルカキタンもそれを黙って見送るほど愚かではない。すぐ全軍に追撃を命じた。(おく)れた兵は次々に斬られる。


 背後に迫る馬蹄(トゥル)の音にインジャらは気が気ではない。アネクはインジャの腕の中で気を失ったまま、援軍はいまだ来る気配もなく隠れられそうなところも見当たらない。


 まさに絶体絶命、(たと)えて云えば(ニドゥ)を覆って(ゴド)を歩くようなもの。百死あって一生を得るかどうか、さすがの上天(テンゲリ)もいかんともしがたく、(たの)むはトシ・チノの援軍ばかりといったところ。さてインジャとアネクはいかにしてこの死地を逃れるか。それは次回で。

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