第一五八回 ②
ナオル猛将を加えて亜喪神を退け
スブデイ智者を得て神都城を衛る
ハレルヤの参戦によってムカリの猛勇を抑えることはできたが、ヤクマン軍にはもう一人の勇将があった。すなわちダルシェから降ったガリドである。
ハレルヤが大君タルタル・チノの逆鱗(注1)に触れて失脚したあと、僅かの間だが魔軍を委ねられたこともある。愚にもつかぬ奸者には違いないが、相当の武勇の主ではある。
すっかり四頭豹の狗と化したガリドは、ムカリが下がったことをむしろ己の力を示す好機と看た。おおいに発奮して、得物の蛇矛を掲げて暴れ回る。
ハレルヤがこれを見逃さぬはずはない。部族を傾けた憎むべき仇敵、かっと目を剥くと大馬の腹を蹴って猛然と挑みかかる。遮ろうとするものは、いや、そのつもりがなくとも線上に立ったものは、瞬時に骸となる。
ガリドは調子に乗って雑兵を突き伏せていた。彼方から悪鬼のごとき形相でハレルヤが迫っていることにすぐには気づかない。悲鳴の波が寄せてきてやっと異状を覚ったときには、指呼の間に巨躯があった。
「ガリドォォォッ!!」
裂帛の気合い至って、一瞬に身は竦み、蛇矛を執る手ががくがくと震える。目を見開き、開いた口を塞ぐことすら忘れる。どっと汗が噴き出して、声にならない絶叫とともに馬首を廻らさんとするが、
「遅い!」
言うとともに大刀一閃、ガリドの首は驚愕の表情を留めたまま宙に舞う。あまりの早業に、首が胴を離れたことに気づかず、ぱくぱくと口が動いて何か言おうとした。……と、のちのちまでまことしやかに語られたほどの鮮やかさ。
味方からは大歓声、敵人は戦慄してどっと浮足立つ。
この機を逃さず一斉に攻めかかったので、おおいに押し込む。しかしそこはムカリもさるもの、兵衆を纏めてぐっと堪える。巧みにハレルヤを避けつつ、右に左に獅子奮迅のはたらき。
再び戦線は膠着して、双方兵を退く。ジョルチの陣営では、参陣早々に敵将を屠ったハレルヤに賞賛を惜しまぬものはない。
ムカリはさらに十里退いて陣を構える。幾日かは息を潜めて動かない。九尾狐テムルチや白面鼠マルケは、勢い込んでナオルに攻撃を進言したが、
「氷の張った湖に踏み込むことはない。薄氷ともかぎらぬぞ」
そう言って肯じない。また言うには、
「敵がわざわざ麒麟児と合流する時日を与えてくれているのだ。何を焦る必要があろう」
みななるほどと得心する。言葉のとおり、数日後にはネサク軍が到着する。シン・セクはタクカを随えて颯爽と現れる。諸将と挨拶を交わすと、
「俺が来たからには、亜喪神ごときに好きにはさせぬ」
おおいに嘯く。諸将はやんやの喝采。また後続のスク・ベクが、敵軍の退路を扼すべく動いていることを告げれば、マルケが感心して、
「ああ、お二人はまさしく名将! これ以上の援軍はありません」
誰もが明日は兵馬を列ねていざ決戦、とて勇躍する。と、自ら志願して敵情を探っていたタケチャクがあわてて戻ってきて言うには、
「亜喪神め、退却したようだぞ!」
みなおおいに驚く。シンなどは右の拳を左の掌に打ちつけて、
「この麒麟児と戦わずして去るのか! 俺は戦うためにきたのだ。そんなことは恕さぬぞ!」
言うや否や、さっと飛び出していく。ナオルたちがあわてて止めようとしたが、何と云っても件の神速の法(注2)なれば声をかける暇もない。諸将は急いで兵衆のもとに返って追撃の準備を命じる。
そのころにはネサク軍はすでに進発している。先頭を行くはもちろんシン・セク。騎るは漆黒の名馬「黒亜麒」。兵衆を叱咤しつつ道を急ぐ。これに漸くムジカの兵が続き、キレカ、オラルの隊もあとを追う。
敵が拠っていた地に到れば、とっくに引き払ったあと。舌打ちして踏跡を辿る。しかしついに見失って追撃を断念する。シンは切歯扼腕して、タクカに慰められつつ帰陣した。
ナオルは斥候を放って広く探索させたが、まことに南原まで退いた様子。さらにスク・ベクから早馬が来て言うには、彼らもまたムカリ軍に遭うことはなかったとのこと。
ともあれ、麒麟児の合流によって敵を退けたことには違いない。みなこれを称えて戦勝を祝う宴を開く。それでもシンは憤懣やる方なく、常より酒量を過ごしたがこの話はここまで。
実のところムカリがどうしたかと云えば、四頭豹から撤退の命を受けて早々に南原に帰っていた。当人としては不本意であったが、相国には逆らえない。復命に及べば、四頭豹は満悦の体でこれを激賞して、
「まったくお前は父に勝るとも劣らぬ名将だ。進んでは策を完うし、退いては軍を全うした。言うことはない」
ムカリは少しばかり不満があったが、これを聞いてすっかり霧消した。にやにやと笑って揖拝する。それに向かって言うには、
「これでインジャも、留守地が累卵の殆うきにあることを肝に銘じただろう。さらに遠方に兵を割くことはできぬはずだ。よいか、亜喪神。私が真に欲しているのは東原だ。東原さえ手に入れれば中原などいかようにもなる」
「はい」
笑みを収めて、
「勝った、勝ったと浮かれているがいい。私はな、得るべきものと、そのために棄ててよいものは明瞭に分けているのだ」
「はあ……」
ムカリは意とするところを把みかねて曖昧に答えたが、この話もまたここまでとする。
(注1)【タルタル・チノの逆鱗】ハレルヤは、タルタル・チノがヤクマンの招撫に応じようとしていることを非難して罪を得た。第一三八回④参照。
(注2)【神速の法】シンは、自らの足で信じがたい速さで駈けることができる。第六 一回②参照。