第一 六回 ③
インジャ乃ち虜囚と為りて女傑に遇い
アネク忽ち玉質を損ない義君に救わる
ハツチが思わず、おおと声を漏らす。ジュゾウが喜んで縄を解こうとするのをナオルが制して、
「待て、罠かもしれぬ。もうひとつ質問することをお許しください。マシゲル部に嫁いだのはホエレン家の娘(注1)でしたね」
これを聞くと、アネクは目を円くして首を振った。それを見るやナオルはぱっと平伏する。ジュゾウはあわてて縄を解いて猿轡を外し、インジャ、ハツチも揃って膝を折る。アネクは虚を衝かれて呆然としている。
「数々の無礼、ご容赦ください。実は私はフドウ氏族長のインジャと申します。ベルダイ左派のアイルを訪ねようと参ったところ、図らずも密偵と間違われて虜囚の憂き目を見た次第。こちらが左派の陣なのか右派の陣なのか判然としなかったので、迂闊に名乗るわけにもいかず、やむをえずご寝所を騒がせたというわけです」
四人の好漢は揃って陳謝する。アネクは衝撃から青ざめたままだったが、はっと気づいて言うには、
「すると、あなたが右派の軍勢をメルヒル・ブカで破った名高きフドウのインジャ殿だと云うのか」
「はい。こちらは義弟のジョンシ氏族長ナオル。それから背の高いのがハツチ、低いのがジュゾウ。どちらも神都のものです」
そう言って顔を上げて正視すれば、アネクは思わず頬を染めて俯く。
「それにしても、もっと方法が、違うやり方があっただろうに……。なぜ名乗らなかったの? こちらこそとんだ無礼をしてしまって……」
寝具の端を指で弄びながら、恥ずかしそうにしている。
「それはもし、名乗ったりすればそれこそ、ここが右派の陣であったら、首が飛ぼうというもの……」
インジャもつられて舌が鈍る。見れば耳まで赤く染めている。それもそのはず、インジャは同じ年ごろの娘と面と向かって話したことがほとんどなかったのである。しかもそれが魅惑的な美しい少女なのだからなおさらのこと。
ジュゾウなどは内心おもしろがって、二人の様子をにやにやしながら観ている。二人が真っ赤になって黙ってしまったので、場には何とも形容しがたい空気が流れた。ジュゾウはますますおかしくてしかたがない。
だがそこでハツチが間の抜けた声で、
「ところで、このあと我々はどうしたらいいんで?」
アネクは、はっと我に返ると、
「す、すぐに寝所を用意させましょう。しばらくここでお待ちください」
とて、逃げるように走り去ってしまった。ジュゾウはハツチを睨みつけて、
「阿呆め!」
言うなり、ぽかりと殴ったが、くどくどしい話は抜きにする。
ともかくこうして疑いは解け、かえってベルダイの客人として遇されることになった。翌日の夜には行き違いを水に流すべく宴席が設けられ、アネク自ら四人に酌をして回った。もちろん衣装も軍装ではない。
ジュゾウはずっと頬が緩みっぱなしである。ハツチは緊張して注がれるままに黙々と飲んでいる。何か尋ねられても、「はっ」とか、「うっ」とかわけのわからぬ答えを返している。席上、ふとアネクが言った。
「それにしても変ね。あなたたちは左派右派の見分けがつかなかったらしいけど、旗が違うのよ。知らなかった?」
四人は一様に驚く。アネクが笑って言うには、
「左派の旗は縁取りが薄黄色、右派の縁取りは灰青色だから、一目瞭然なのに」
「……気づかなかった」
ナオルが溜息混じりに言った。
「あら、それでよく戦に勝ったね」
そして少し言いにくそうに続けて言うには、
「……それを知っていれば、昨晩あんなことをしなくてよかったのに」
一同は真っ赤になって俯く。アネクは嫣然として微笑むと、
「ふふ、気にしてないよ。さあ、飲みなさいな。どうぞどうぞ」
そのあとはマシゲルとの婚姻の話題などで盛り上がり、深更まで飲み交わして、すっかり打ち解けるに至った。
翌日、四人はアネクに見送られて、いよいよトシ・チノのアイルへ向かうことにした。道中、ふとナオルがジュゾウに言った。
「おい、やはりあんなことしなくてもよかったんじゃないか。見張りを縛った時点で馬を奪って逃げればよかったんだ。ジュゾウ、さては変な気を起こしたな」
高らかに笑うと舌を出して言うには、
「いやあ、あんな美人を放って去るなんてね。もう一度尊顔を拝しておこうと思いまして」
「やっぱりそうか! あのときはそれしかないと思ったが、いやはや」
「アネク様を押さえつけたときには、ちと妙な気分になりましたぜ」
「こいつめ!」
「でもおかげでアネク様とご縁ができたじゃありませんか。あのまま逃げていたら今後気まずいところでしたよ」
そんな調子で一行はまことに呑気に馬を進めていた。ところがわずかに半日ばかり経ったところで、うしろから彼らを呼び止める声がある。何ごとかと身構えれば、ただ一騎追ってくるものがあった。
「何ものだ!」
ナオルが誰何すると、
「アネク様の麾下のものです! 怪しいものではありません」
見れば完全な武装の上、肩からは出血している。さては凶事が起こったかと即座に見当をつける。男は苦しそうに喘ぎながら、
「インジャ様が発って間もなく、サルカキタンの軍勢に襲われたのです。今はアネク様の指揮のもと持ち堪えてはおりますが、敗色は濃厚です。それがしは救援を求めるべく族長様のもとに馳せ参じるところです」
四人の好漢はこれを聞いておおいに驚いた。ジュゾウが真っ先に言った。
「戻りましょう。あの気性じゃアネク様は一歩も退きませんぜ。だとしたら命を失うか、捕らえられて辱めを受けるかふたつにひとつだ。サルカキタンごときにアネク様が辱められるなど以ての外じゃありませんか」
(注1)【ホエレン家の娘】マシゲル部に嫁いだアンチャイは、キハリ家の娘。罠を警戒したナオルがわざと異なる家名を言ったのである。